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2021.04.09
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テーマ:史跡巡り(775)
大津山家稜の墓に来ました。33.05971, 130.5976

県道194号線から上がる歩道があります。





大津山家稜の墓: 大津山氏は、藤原不比等より出た中流貴族日野権大納言資名の子資基が、応永二年(一三九五)足利尊氏に属して武士になり、当時振るわなかった北朝の挺入れのために、臼間野荘大津山の地頭に補任され、関外目に下向土着したことに始まる。 以来、北朝側として大津山城を拠点に威武を振るった。大津山の地は交通の要衝であり、戦国時代に入ると大友氏の肥後目代小原鑑元に、また、竜造寺氏の北肥制圧の頃には竜造寺家治に一時城を追われたこともあったが、よく難関に耐え、肥後の国衆として戦乱の世を生き続けた。 八代領主大津山家稜は、天正一四年(一五八六)島津氏の先駆となり、士二五〇人・足軽一〇〇余人を率いて、筑前岩屋城の高橋紹運攻めに参戦し、その翌一五年(一五八七)の豊臣秀吉による島津征伐においては、秀吉を大津山城に迎え参戦を願い出るも、留守役となっている。秀吉の九州平定後には所領を削減、新領主の佐々成政には大津山城を追われ、神尾城に移っている。
 天正一五年に国衆一揆が起こると、和仁・辺春氏と共に反佐々の旗を揚げ、二六〇余人を率いて神尾城に立て寵もったが、『南関紀聞』には、佐々成政の偽手紙によって、吉日の浄満院で酒宴中、伝七生駒お千に刺殺されたとある。『中原雑記』『九州治乱記』などを総合して考えると、安国寺恵瓊らの謀略により浄満院で殺された可能性が高い。その時期は
恐らく、田中城陥落以前ではなかろうか。 





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最終更新日  2021.04.09 00:00:20
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