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テーマ:史跡巡り(775)
カテゴリ:・・南関町・和水町
辺春能登守親行の墓に来ました。33.06415, 130.59693
![]() 同じく県道194号線沿いにあります。 ![]() 辺春能登守親行の墓: 和水町西吉地字村ノ前: 中世の国衆である辺春能登守親行の墓で、「辺春姓墓」の刻銘があります。 辺春氏は、現在の福岡県八女市立花町あたりを領地とした国衆で、和水町にも城を構えています。立花町の辺春谷には「三ノ瀬城」「高須田城」「熊ノ川城」「前川内城」という四つの城があり、和水町出十町にある坂本城を肥後進出の拠点としたと考えられています。 『肥後国誌』によると、天正七年(一五七九)頃には、父・辺春加賀守親貞と、その子親行が坂本城に在城し、玉名郡十町村・板楠村・吉地村・藤田村・前原村・江田村・山鹿郡茂賀浦八一町を領有したと伝えています。 天正一五年(一五八七)、豊臣秀吉の九州征伐の際は、城を開いて協力し、本領百二〇町を安堵されました。しかし、同年に勃発した肥後国衆一揆では、一揆に加担した和仁城の姉婿であったため和仁氏に組みし、共に田中城に籠城しました。秀吉軍が田中城を取り囲む様子を描いた『辺春和仁仕事寄陣取図』にも、本丸に「辺春」字が書かれています。最後は、豊臣軍の軍師安国寺恵瓊の謀略にかかり、田中城の城主和仁親実を殺害し、落城させたと伝わります。その後、豊臣側からの恩賞もなく、この地で病死したと『和仁軍談』には伝わっています。 ![]() ![]() ![]() お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021.04.10 00:00:19
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