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カテゴリ:江戸切絵図歩きめぐり
2023年07月13日(木)曇
関東甲信地方の梅雨明けは、まだ気象庁から発表されていない。今回歩くのは、文久3年(1863年)板「飯田町駿河台小川町絵図」のうち、現在の千代田区神田三崎町1~3丁目・西神田1~3丁目に当たる地区。08:55 新川橋 、【 江戸切絵図歩きめぐり 第22回 】を歩き始める。 神田三崎町1~3丁目。切絵図に「水道橋」「ミサキイナリ」とある。神田川に架かる水道橋の名前は、その少し下流に神田上水懸樋(神田上水が神田川を越えるために設けられた水道施設)があったことに由来する。水道橋の袂には枡形門が築造されていない。 ![]() ミサキイナリは「三崎稲荷神社」のこと。3代将軍徳川家光が崇敬したため、諸大名が参勤交代による江戸入りの際、当社に参拝し心身を祓い清めることが慣例となり、「清めの稲荷」と称されていたという。創建時期は不明。何度かの移転の後、明治38年(1905年)現在地に遷座した。 ![]() 切絵図に「小栗坂」とあり、その小栗坂を下る。標柱に書かれた解説によると、江戸時代初め坂下の路地を入ったところに730石取りの旗本 小栗家の屋敷があったことから名付けられたという。幕末の切絵図では、小倉家の屋敷は見当たらない。 ![]() 切絵図に「講武所」とある。嘉永7年(1854年)幕臣の武術訓練機関として幕府が築地に設置した施設で、万延元年(1860年)当地へ移転してきた。剣術・槍術だけでなく、洋式訓練・砲術なども教授した。用地には越後国長岡藩(譜代)などの屋敷地が充てられた。 ![]() 西神田1~3丁目。切絵図に「伊藤(東)玄朴」とある。伊東玄朴はシーボルトに学んだ蘭方医。日本で初めて種痘に成功し、安政5年(1858年)同志らとともに神田お玉が池(現在の千代田区岩本町)に種痘所を開設した。当地に解説板等はない。09:40 南堀留橋 、【 江戸切絵図歩きめぐり 第22回 】はここで終わり。 新川橋 → 南堀留橋 : 3.5 km( 江戸切絵図歩きめぐり累計 60.2 km ) ![]() お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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2023.07.14 08:30:55
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