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「歩きつなぎの旅」の記録

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2023.08.03
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2023年08月03日(木)晴


今日も東京は猛暑日。今回歩くのは、文久3年(1863年)板「飯田町駿河台小川町絵図」のうち、現在の千代田区神田小川町1~3丁目・神田猿楽町1~2丁目・神田駿河台1~2丁目に当たる地区。08:45 神田警察署前交差点 、【 江戸切絵図歩きめぐり 第24回 】を歩き始める。

神田小川町1~3丁目・神田猿楽町1~2丁目。切絵図に「岡田一(十の誤刻)松」とある。かつてここには神道無念流の道場「撃剣館」があり、道場主は代々十松を襲名した。3代目十松利章は、のちに新撰組二番隊長となる永倉新八に剣術を教授したといわれる。



神田駿河台1~2丁目。「皀角坂(さいかちざか)」を上る。切絵図には「サイカチサカ」とあり、かつて当地にサイカチの木がたくさんあったことから坂名が付けられた。サイカチはマメ科の落葉樹。



切絵図に「鵜殿甚左エ門」とあるのは、幕臣鵜殿長鋭(ながとし)の屋敷。海防掛目付だった鵜殿は、嘉永7年(1854年)のペリー艦隊来航に対して攘夷を主張したが、翌年の日米和親条約締結の際には応接掛のひとりとしてアメリカ側との対応を命じられた。



「太田姫稲荷神社」を訪れる。切絵図では神田川南岸(現在の社殿より約400m北北東)に「太田姫稲荷」とある。数度の移転を経て、昭和6年(1931年)現在地へ遷座。神田川岸の旧社跡地には、ムクノキの幹に「太田姫神社 元宮」の札が縛り付けてある。



「甲賀坂」を上る。切絵図には「エウガサカ」とある。坂名の由来は、甲賀組(近江国甲賀地方の地侍出身者)が多く居住していたからとも、かつて当地にあった光感寺が訛って甲賀になったからともいわれる。



切絵図の甲賀坂に面して「小栗豊後守」とあるのは、幕臣小栗忠順(ただまさ 通称上野介)の屋敷。万延元年(1860年)小栗は日米修好通商条約批准のためアメリカ軍艦ポーハタンに乗り太平洋を渡った。帰国後は外国奉行・軍艦奉行などを歴任した。



「雁木坂(がんぎざか)」を下る。切絵図には「カンキサカ」とある。かつては急坂で雁木(木材を梯子状または階段状にしたもの)が組まれていた。現在は坂道であることが分からないほど、勾配は緩やかである。



雁木坂上に「大久保彦左衛門 屋敷跡」碑がある。切絵図に「永田与左エ門」とある辺りに、彦左衛門の屋敷があった。徳川家康・秀忠・家光の3代の将軍に仕え、講談では「天下の御意見番」として親しまれた。09:55 聖橋交差点 、【 江戸切絵図歩きめぐり 第24回 】はここで終わり。


神田警察署前交差点 → 聖橋交差点 : 4.6 km( 江戸切絵図歩きめぐり累計 69.9 km )






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Last updated  2023.08.04 08:53:46
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