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「歩きつなぎの旅」の記録

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2024.02.24
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2024年02月24日(土)快晴


穏やかな快晴。歩きめぐり日和。今回歩くのは、文久3年(1863年)板「八町堀霊岸嶋日本橋南之絵図」のうち、現在の中央区新川1丁目に当たる地区。08:55 高橋西詰、【 江戸切絵図歩きめぐり 第41回 】を歩き始める。



越前堀公園に「霊巌島之碑」がある。寛永元年(1624年)隅田川の中洲芦原を埋め立てた土地に霊巌寺が創建されたことから、当地は霊岸島(霊巌島、現在の新川)と呼ばれるようになった。明暦の大火(明暦3年 1657年)によって霊巌寺は焼失、深川(現在の江東区白河)に移転した。霊岸島の亀島川沿いは、埋め立てが不十分で土地が軟弱なため「蒟蒻島」と俗称された。切絵図には「埋立地 コンニヤク島」とある。



越前堀公園内に「越前堀跡」解説板と「越前堀の石垣石」がある。江戸時代、霊岸島には越前国福井藩松平家(親藩)の中屋敷があり、敷地の三方を堀割で囲まれていた。切絵図には「松平越前守」とある。越前堀はすべて埋め立てられ、現在は残っていない。



「新川大神宮」を訪れる。代官町(現在の千代田区)にあった伊勢神宮の遥拝所が明暦の大火により焼失したため、万治元年(1658年)霊岸島へ移転してきた。切絵図には「大神宮」とある。霊岸島は水運の便が良いため酒問屋が集まり、その守護神として新川大神宮は崇敬されてきた。



「大栄稲荷神社」を訪れる。神社はオフィスビルに囲まれて鎮座する。明和4年(1767年)霊岸島にできた新しい埋立地の鎮守神として、京都伏見稲荷の分霊を勧請して創建されたと伝わる。切絵図には「栄イナリ」とある。



切絵図の「永代橋」。創架は元禄11年(1698年)。文化4年(1807年)には深川の富岡八幡宮の祭礼へ向かう群衆の重みで落橋、1400人を超える溺死者を出した。明治30年(1897年)に新設された鋼鉄製の永代橋は、これまでの橋より100mほど下流(南側)に架けられた。



新川公園に「新川之跡」碑がある。万治3年(1660年)幕府の御用商人だった河村瑞賢が、亀島川から隅田川まで霊岸島を東西に開削。この水路がのちに新川の通称で呼ばれるようになった。瑞賢の屋敷も新川沿いにあり、跡地には「河村瑞賢屋敷跡」解説板が設置されている。



切絵図には、一ノ橋・二ノ橋・三ノ橋の架かる新川が描かれている。水路は昭和20年代に埋め立てられたが、往時の流路は現在も道路の曲線にそのまま残っている。09:35 中央新川二郵便局前、【 江戸切絵図歩きめぐり 第41回 】はここで終わり。


高橋西詰 → 中央新川二郵便局前 : 2.6 km( 江戸切絵図歩きめぐり累計 119.5 km )






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Last updated  2024.02.25 08:05:27
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