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朝吹龍一朗の目・眼・芽

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2009.11.28
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カテゴリ:ばっちっこ
ばっちっこ その10


 2学期は新谷のり子の『フランシーヌの場合』を学校帰りに大声で『ブランチンコの場合は』とわめきながら歩き、正月は『黒猫のタンゴ』を『ボクの恋人は黒いあれ』と小声で笑い飛ばしながら過ごし、予定通り俺は区立中学校に進学した。恒久は俺が受けなくなってから日進で1回だけ一番を取って、両親の、そして恒久自身の希望通り麻布中学に通うことになった。
 もちろん、昼間は麻布の生徒として遊び呆け、夕方は大人の恒久サマ(弓子にはこう呼ばせていた)として遊び呆けていた。酒もだいぶ強くなっていった。ついでに一人で出すものを出すやり方も覚えてきて、目の前で俺に実演して見せてくれた。これは、チンパンジーが死ぬまでやり続けたというまことしやかな話が満更嘘でもないと思った。ただし、目にも刺激が必要で、かつ、俺の家で兄弟や両親に気付かれずに満喫するのはほとんど不可能な方法だった。今度ばかりは恒久がうらやましくなりかけたが、何も一人でやることはないわけで、その気になったら夜中でも響子の部屋に行けば済むことだと気づいて納得した。

 俺の方は普通の区立中学だから昼間は遊び呆けるというわけにはいかない。恒久は教室の後ろで授業中に雀卓を囲んでじゃらじゃらさせていたというから相当のものだが、さすがに俺はそこまではしなかった。代わりに、響子の部屋で見かけた剣道部という文字に興味を惹かれ、防具一式を響子に譲ってもらって剣道を始めた。面は中学校が部活用に揃えている普通のものと同じような造りだが、響子の汗が染みていてかすかにおしろいの香りがした。胴は中学生用の竹製とは全く違って、いわゆる「赤胴」だった。響子はこれで関東大会3位まで行ったという。
 なんだか下半身を響子が守ってくれているようで、紺色の袴を着(つ)けるたびに緊張感と同時に桃色の空気が目の前を横切るような気がした。乱取り稽古が一巡するまではいつも何となく落ち着かない気分だった。
 竹刀は一年の時はいわゆる『さぶろく』(3尺6寸)の学校備え付けのものを使ったが、2年生になった時から、響子が買ってくれた大人用の『さんぱち』(3尺8寸)を使い出した。同時に、週3回のクラブ活動では物足りなくなって、クラブのない日は同級生を誘ってすぐそばにある新宿警察署の道場に通い始めた。警察剣道、略して「警剣」それを俺たちは「経験」の意味をダブらせて使っていた。その甲斐あって、2年の半ばで初段、3年の11月には弐段をいただくことができた。が、都大会では3位が最高だった。一流になるには真面目さが足りないということは自分でもよくわかっていた。

 そんなこんなで、一年の夏には俺が中学生であることがばれてしまった。そのことに気付いた時、響子のただでさえ大きな目玉が、思わず手のひらを出して落ちてくるのを受け止めてやろうとしたくらいに見開かれ、息を吐くのを忘れたかのようにじっと息を止めたまま1分くらい沈黙が続いた。やがて、
「でも、しょうがない、あたし、あんとき、館山で、サメが来たとき、溺れちゃったのよね、のぶくんに、きっと。だから、いい。まあ、年下である、ことには、変わりないもんね、それに、ぷろみっしんぐ、東大、だし、ね」
 響子は半分泣きながら俺の学生ズボンのベルトに手をかけた。

 道場へ行かない日は図書館にいた。文字が目当てではない。毎回分厚い美術書、画集を何冊も抱えて閲覧テーブルに戻り、飽きもせずに眺めた。区立中学の貧弱な蔵書はすぐに見つくしてしまい、当時できたての新宿中央公園の外れにあった区立図書館に通い、そこも征服すると渋谷区立だが環状6号線(山手通りとは地元では呼ばなかった)のすぐ外側にある本町図書館にまで足を伸ばした。
 やがて絵にも飽きたころ、レコードというものに出会った。真面目ぶってクラシックと呼ばれるジャンルから聞き始めたが、バッハハイドンベートーベンからモーツアルトに進んで、これを何故「クラシック」と呼ぶのか疑問を持った。これはポピュラーソング以外の何物でもないと思った。思ったついでに図書館にいることも思い出し、音楽の本をひとしきり読んだ。吉田秀和の『モーツアルト』が出たころで、2時間で読み上げてばっかじゃなかろうかと思い、それきりクラシックは沙汰やみにして代わりにジャズを聴き出した。続いて、ロックンロールまで。およそジャンルにこだわらず、3時過ぎから7時頃まで、考えてみればよく飽きもせず、こんなに聞き続けたものだ。夏などはヘッドホンが汗まみれになって、耳の後ろに汗疹(あせも)ができたくらいだ。

 夏休みは恒久のいとこで静岡大学に通っている瑶子さんという山女の影響で南アルプスに登るのが恒例になった。恒久と二人で4日から1週間くらい山に入る。その当時南アルプスは山小屋があっても無人だったり、管理人がいても素泊まりだったり、食事の提供がある一部の、例えば北岳周辺などでは今度は宿泊代が高くなりすぎて、などなど、結局いつもシュラフ(注1)にツェルト(注2)、それに食料は自炊で停滞(注3)の分の予備を含めて予定日数の1.5倍くらい持って出かけた。3年の夏は伊那谷側の戸台から延々と河原を歩き、そのまま千丈岳直登。翌日野呂川まで2千メートル以上降って再び北岳に登り返し、更に間ノ岳農鳥岳を縦走して大門沢を降りるコースに挑戦したのだが、このときは新宿駅まで歩く間に汗が吹き出し、早くも二人で「帰ろうよ」コールが始まる始末だった。40キロのキスリングはさすがのやんちゃ坊主たちをも拉(ひし)いだ。もちろん完走したが。
 水道橋にあった『フタバヤ』で登山靴をオーダーしたのもこの頃だ。代金は、もちろん響子が出した。その当時の大卒男子初任給の半分以上した。

 山から戻ると、休養と称して館山の別荘に1週間ほど滞在した。今の表現でいう、『ゆるーい』日々を過ごすわけだ。そのうち1日か2日は響子たちが遊びにくるのも毎年恒例になった。相変わらず冷房のある部屋はひとつしかないから、俺たちはセットで夜を過ごした。恒久と俺はそういう仲だったし、響子と弓子も似たような関係だった。
 3年の夏はこの生活から戻ってすぐに駿台模試を受けて、平気で1番を取った。

 話は戻るが、父親からは入学祝にオリベッティのタイプライターを買ってもらった。活字はパイカではなく、名前に惹かれて一回り小さいエリートにしてもらった。それに、英語専用ではなくドイツ語のウムラウトもβ(エスツェット)も、フランス語のセ・セディーユ(Cの下にひげがあるやつ)までも打てる西ヨーロッパ言語仕様を頼んだ。βはさすがに特注で、一ヶ月待たされて届いたのを見ると、バーに活字が銀蝋付けしてあった。俺はつまらない英語の授業の間、フランス語の独習を始め、3年になる頃にはこのタイプライターでラシーヌの『フェードル』を写し、持ち歩き、イポリートの名セリフををそらんじたりしていた。

Vous voyez devant vous un prince deplorable,
D'un temeraire orgueil exemple memorable.
あなたの前にいるのは、一人の哀れな王子、
後の世まで、傲慢な自負心のいましめとなるべき者なのです。(二宮フサ 訳)

 バカな話だが、結局英語よりフランス語の方が(日本人としては、だが)より自由に使えるようになった。押し付けはだめだと気付いた。

 夜は、このころから父親が家に寄り付かなくなっていたこともあり、粗末な夕食をそそくさと掻きこんですぐに兄や弟が冷たく北側の兄弟3人が寝起きしていた六畳へ引っ込んでしまうのに対して、俺はやさしい母親の悲しそうな顔を見ているつらさよりもそばにいてくだらないテレビを一緒に見てやる方を選んだので、響子との1週間に一度は通うという約束が果たせないこともあった。ひとしきりテレビに母親が飽きてこっくりこっくり始めると、六畳から自分の教科書や兄の参考書などを持ち出して来て12時まで暇つぶしをした。NHKが国旗を映し、君が代を流すのを聞いて、ため息をつく母親が布団を敷くのを手伝ってから、件(くだん)の6畳に引き上げる日々だった。

 そういうわけで、別に意図したわけではないものの、中学校の成績は、お兄さんの再来いやそれ以上、神武以来の秀才だと囃し立てられた。入学して最初の中間テストで488点を取った。5科目だから平均は98点近いわけで、囃されるのも当然かもしれない。数学と英語、それに地理(一年生の社会は地理だった)は満点、国語は答案用紙に名前を書き忘れて10点減点、理科の第2分野(生物と地学をまとめてこの当時はそう呼んでいた。ちなみに次の「第一分野」は物理と化学である)は満点、そして第一分野はあとで「意地でもミスを見つけてやろうと思って必死にアラ探しをした」と教諭が笑って話してくれたのだが、元素の『元』の字が数学の「π」に見えるという言いがかりでマイナス2点になっていた。それで都合488点だ。

 このときばかりは世の中そんなものかと思った。悲しそうな母親の顔を見たくないから隣で暇つぶしに教科書を広げているだけでほとんど満点が取れるほど世の中は難問が枯渇しているのかと思った。それなら俺は世のため人のために一生をささげる必要はない。自分の好きなことをしていればそれで世の中は俺と関係なく回って行くに違いないと悟った。万一、世界が俺を必要とする時が来たなら、その時はすべてを捨てて尽くせばいいと思った。この時は、捨てるに惜しいものなど何ひとつ持っていなかった。

 そのあとも似たり寄ったりの点数で、ついに卒業まで一番で居続けた。別に
「一番を守った」なんて言うつもりはない。単に、結果として、そうだっただけだ。

 一方めちゃめちゃに遊び回っている恒久はさすがに一番は取れず、それでも麻布の中でひとけたにちょっと届かないあたりをうろうろしていたようだ。はっきりとは言わないがまあ、10番から20番くらいのところなのだろう。これは嫌味でも何でもないのだが、俺たちにとって学校の成績は人間の善し悪しを測る尺度ではなくなっていた。そんもの、やればやったで上がるし、やらなくたってできるやつにはできる。でも人間の価値は学校の勉強・成績なんかとは全く別のところで決まるんだということを、学校生活とはかけ離れたところで思い知らされていたからだ。それは、響子や弓子や、彼女たちを取り巻くオトナの男たちを見たり実際に彼らと付き合ったり彼らのシノギの邪魔をしたりしながらわかったことだった。

 でもまだその話に行くのはちょっとだけ早い。


注1 シュラフ:寝袋。それもダウン100%なんてぜいたく品ではなく、重くかさばる化繊の安物だった。
注2 ツェルト:非常用の小さなテント。
注3 停滞:山中で雨などのとき、同じ場所で『停滞』し、次の日の行程を先延ばしすること。だからその分食料が余分に必要になる。
注4 キスリング:昔の、帆布でできた大型のリュックサック。今はまず見かけない。


                             ばっちっこ  続く

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Last updated  2009.11.28 10:06:14
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