ばっちっこ その5 朝吹龍一朗
ばっちっこ その5 朝吹龍一朗 翌朝、館山漁港に沿海漁業の小舟が戻ってくる時刻、5時少し前、に、ホテル西風を出た。既にかなり明るい上、意外なほど人通りが多い。みな市場のほうに歩いて行くらしいのだが、間の悪いことに恒久の別荘の方向とは逆で、もろに顔をさらすことになった。よそ者だから尚更目立つ。すがすがしい天気の中をほんの5分(あとから時計を見ると本当に近かった)歩いただけなのにじっとりと汗をかいてしまった。 引き戸の鍵を開けてそっと閉めると恒久が起きてきた。俺の無事な顔を見て、あとは何も言わずに廊下を戻って行く。一番奥の部屋だけ、当時は珍しかったクーラーがついているのだが、俺たちはそこで12時過ぎまで眠った。 紅梅飯店という中華料理屋からチャーハンとギョーザを取って、二人でもそもそと朝飯兼昼飯を食べた。歩いて5分もかからないくらいなのだが、さすがに俺は外に出る気がしなかったためだ。こんな田舎にしてはしっかりした味で、俺たちの地元にある山珍居という有名な台湾料理屋といい勝負だった。いまなら『隠れた名店』とでも銘打ってテレビのグルメ番組に出たりインターネットで囃されたりするのだろうが、その当時はどちらかというとうらぶれた感じの外見で、地元の漁師御用達一本槍という店だった。 キリンの大瓶を二人で一本空けるともうやることがない。響子たちは昼前の電車で帰った筈で、今晩から店に出るのだと言っていたから、今頃訪ねてもいい思いはできっこない。平凡パンチを買ってくる勇気もないし、買ってきたところでその使い方は二人ともまだ知らなかった。 お膳を片づけて食器だけ玄関の外に出し、雲が少なくとも頭上には一つもないことを確認し、でもそれなりの気温で海に行けばそれなりに面白そうだと思いながら戻ってきて、石でできた流しでコップに水を汲んだ。 ゴキブリ、それも新宿で見るようなやわなやつではなく、クワガタムシのつのが取れたくらいの、堂々とした、ぴかぴか光る背中の、5センチくらいはありそうなやつがいた。残念ながらゴキブリが苦手な俺がううう、と唸っていると恒久が立ち上がって寄ってきた。と思うと右手の掌にひょいと囲い込んで、そばにあったコカコーラの空き瓶の中に落とし込んだ。器用に左手でふたをすると、ゆうべの仕出し弁当についていたサランラップをゴミ入れから取り出してさっさと封をした。瓶の底では巨大な黒い塊がしきりに飛び跳ねている。「俺らみたいだね」 と恒久が言った。言い方に暗さは残っていなかったので、俺は軽く「ごめんな」 と言った。 それを潮に、恒久は麦わら帽子をかぶって出掛けて行った。「偵察偵察」 とおどけてはいたが、ゴム草履ではなく、逃走用にちゃんとその頃の中学生に流行していたバッシュー(バスケットシューズ)を履いていた。 南側に開け放った硝子戸の外には軒(のき)に向って朝顔の蔓が這いのぼっていて、今朝はきれいに咲いていたであろういくつかはすっかりしぼんでしまっている。内側にすぼまったように閉じている形が、ゆうべの響子の体の一部を思い出させ、だれも見ていないにもかかわらず俺は一人で顔を火照らせた。 することもなく、いや、何かをする気にならず、ぼんやりしていると2時を過ぎたころ恒久が戻ってきた。昨日一日だけでしっかり日焼けしているから青ざめた表情は読み取れないが、目がつり上がって口角が横に延びているので緊張しているかこわいものを見たかのどちらかであることは間違いない。やがて、「まだうろちょろしてる」 という報告を聞くまでもなく、うかつに外を歩かない方がいいことはわかった。 であれば、恒久には申し訳ないが必要な物の買い出しだけはやってもらうしかない。その代り家の掃除や洗い物を俺がすればいいのだ。そして外に出られない暇つぶしは、雨でも降った時のためにと持ってきた本を読めばいい。俺が持って来ていたのは、おやじの本箱から適当に見繕ってきた文庫本、水滸伝全9巻その他だった。「お前、古いな」 と恒久からは力いっぱい馬鹿にされたが、そういう恒久が取りだしたのはサガンの『ブラームスはお好き』だった。「なるほど、年上趣味か」 俺がからかうと黙って下を向いてしまった。既に恒久も一度読んでいるはずだ。その本は彼の兄の蔵書から見つけたもので、俺が最初に読ませてもらったものだからだ。「照れることもないだろ、夕べの記憶は俺も一緒だし。ちょっと危ないのがあったけど」「俺の方はハマグリだった。塩じゃなくて砂を吹いた。男も初めての時は血が出るのかと思うくらい痛かったし、だいぶ細かい傷がついた」「出すもんは出したのか」「出た。出したというより、出た。ノブはどうした?」「似たようなもん。なんだかわかんないうちに終わった。また勉強しないとだめだと思ったからちゃんと住所も店も聞いておいた」「俺も。聞いたら成子坂下だった」「近いよな、今度行く中学のそばじゃないか」「そう、三平ストアの裏だって。毎日自転車だな」「毎日、かよ」「そうか、勉強も少しは、な。本も読みたいし、またプラネタリウムも行きたいしな」 俺たちは月に一度、第4日曜日に渋谷の東急文化会館の8階にあるプラネタリウムの早朝教室に通っていた。来週の日曜日がその日だ。そういえば、アポロはどうなっただろう。 ふと思い出してテレビをつけると、なんだか大騒ぎである。 西山千さんの同時通訳の音声が入っている。アームストロング船長の声に西山さんの細い枯れた声がかぶる。相当興奮しているのがわかる。「One small step for a man, one giant leap for mankind.」 西山さんは、「これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である」 とは訳さなかったように覚えている。 俺たちは既に恒久の下のお姉さんのところに来るイギリス人の先生から英語の手ほどきを受けているので、One small step for a man までは聞こえたが、そのあとの leap がウィープに聞こえて、何をweep、泣いているのだろうと思ったのと、man と mankindの意味の違いがわからなかった。ただ、西山さんの同時通訳で月面は粉状だとか、これから降りる、だとかに続いて、さっきの名セリフが出てきたので、leapが跳躍のことだとやっとわかった。ハミルトンのSF小説に、1000万光速で宇宙を駆け巡る戦争ものがあるのだが、そのあまりの嘘っぽさに、そう書くならせめてワープとか、leapとか書いてほしいなあ、と感じたことが思い出される。「おい、着陸だってよ、俺たちの、できちゃってたりして」 恒久が俺の顔を丸い眼で見つめながら言った。真剣に考えているようにも見えた。「だってさ、月のものだろ、丸い卵子だろ、あの着陸船だろ、それが着陸しちゃったんだぜ」 それと俺たちの『初体験』と、何の関係があるのかね。とは言わなかった。唐突に、来週のプラネタリウムのネタはこれで決まりだなと思った。注『ブラームスはお好き』のアウトライン: 39歳の独身女性ポールが主人公。同じ独身の中年男性ロジェ、若くて心のやさしい25歳の青年シモンとのあいだで揺れる女心が描かれる。人気blogランキング投票よろしく 今日はどのへん?。