幽霊 第十八回 朝吹龍一朗
幽霊 第十八回 朝吹龍一朗 ファックスは怒りで始まっている。 人をからかうものではない、N**市で今日は交通事故は一件も発生していない、市内の病院に片っ端から電話をかけてアンジェという女性が入院していないかどうか確かめたが、どこにもいない、さらに、シャトー・ド・N**というホテルにも、アンジェという従業員は、パートタイムも含めて実在しない、というものだった。 文末には加藤さんが今日電話をかけた連絡先すべての名前と電話番号が列記されていて、その最後には、貴職が嘘をついているとも思いたくありません、嘘でなければ、貴職は幽霊でも見たのではないでしょうか、と記されていた。 幽霊でも見たような顔をしている森之宮を、これは本当に目前に幽霊を見るような目つきで受付の若い女性がおびえた表情で見ている。ファックス用紙から目を上げたのを見計らって、本体より大きな真鍮製のプレートのついた鍵が差し出された。森之宮の左頬が緩んだ。受付嬢もやっと職業的な微笑が戻ったように見えた。 階段を上ると左右にそれぞれ50メートル以上続く長い廊下の両側に部屋が並んでいるのが見える。森之宮の部屋は左側の一番奥のようだった。照明は中世の城のように松明が10メートル置きくらいに配置されているだけで、相当暗い。足元は毛足の長い上等な絨毯が敷き詰められているので、スーツケースの転がりが妨げられる。何度か荷物ともども横転しそうになりながら混乱した頭でドアを開けた。 最近までフランス陸軍の駐屯地だったというそのホテルの土台はおよそ千年もさかのぼる古いもので、完全な石造りだったが、ホテルとして開業するに際してはさすがに当世風の大改装が施されており、大きなバスタブと清潔な洗面スペースがどことなくアメリカっぽい雰囲気すら漂わせている。しかしあえて残したと思われる石組みむき出しの壁は、もしかしたらたくさんのむごい場面も目撃してきたかと思わせるように冷たく佇んでいた。 窓の外には茶色い三角屋根を載せた白壁の可愛らしい建物がある。作りつけのデスクには部屋全体の調和を乱しかねない巨大な鏡が組み合わされている。一目で頑丈であることがわかる引出しが二つ、どうしてもここはドイツだと主張したがっている。何気なく開けるとフランス語、ドイツ語、そして英語の順で並んだインフォメーションリーフレットが一枚だけ入ったクリヤケースがあった。裏返すと手書きで中世風を装った市内地図がはさんであった。 余白の部分に名所解説のようなコラム記事が載っている。さっきの三角屋根も言及がある。中世に実際に使われたチャペルだとのことで、安全極まりない城塞の中、ここで結婚式も実際に挙げられたらしい。ついでに地図に目を近づけると、その建物の右手には武器庫、と記してあった。もう一度窓からのぞくと、100メートル以上続く平屋建てがまるで壁のように連なっていて、そのはるか先にはライトアップされた大聖堂がかすかに見えている。確か、あの建物のそばにある店に予約を入れてあるとドクター・ガイエが言っていたのを思い出した。 出ない幽霊というものもあるのではないか、という表現が頭に浮かんできた。可笑しくなるくらい変な論理だが、森之宮には満更でもない気がして、わざとコートを脱がずにベッドに座ると大きくため息をついた。目の前でアンジェが東洋人の神父の車にぶつけられて怪我をしたのは間違いない。けが、というのはまさに「希望的観測」であり、しかしそうとしか思いたくないのであえて口に出して言った。「アンジェは怪我をした」 黒だかり、じゃない、金色や銀色の髪のやつが多かったから、金銀だかりか、の、連中が口々に病院(ロピタル)、ロピタル、サン・クレール病院が近い、と叫んでいて、救急車役を買って出たタクシーが目の前の道を一方通行を逆走してまでその病院の方向へ走り去ったところまで目撃したのだ。 加藤さんの誤解を解き、まずは感謝の意を伝えてから、あとは自分でやる旨、ベッドサイドの電話で話した。やや不満そうな感情をしっかりと押し殺した大人の反応が電話口から伝わってくる。さすがに欧州事務所勤務に抜擢されるだけのことはある。森之宮は久しぶりに日本語をしゃべった気がした。 あと30分、研究所の面々が迎えに来るまで時間があることを確かめてから、頭を再度フランス語モードに切り替えて、アンジェのおばあさんの家の電話番号を回した。 呼び出し音がむなしく聞こえ続ける。そうか、病院に詰めているなら、家には誰もいないかもしれない。それなら加藤さんのファックスにある病院にいるはずだ。まずは野次馬たちが叫んでいたサン・クレール病院にかけてみたが、そんなけが人はいない、という返事だった。8時30分ごろにタクシーで運びこまれたはずだ、とまで具体的に聞いてみても、答えは同じだった。アンジェ・ロレーヌさんと言うひとは入院しておりません。 ふと思い出してアンジェにもらったお守りのウサギの足を取り出し、どうか無事なようにと祈りながら、残った2本のうちの1本の指を折った。折りながら、なんとも狩猟民族らしい習俗だと思った。期待したような乾いた響きはしない。いささか湿った音がしたきりである。これでは願い事が叶うような気がしない。迷信とわかっていてすがりたかったのに、二重に裏切られた気もしないではなかったが、その時、信じる者こそ救われるという、小学校の時法華の太鼓をたたきながら近所をうろついていた老婆の姿を瞬間的に思い出した。 それは昭和30年代の終わり、東京オリンピックの年だった。復興途上の新宿西口は浄水場が移転したあと、まだ高層ビルの姿はないころで、砂塵が舞い、荒涼とした浄水場跡地を一人で歩き回るその老女は、**神社の神主が明治の末に内藤新宿の芸者に産ませた子だとも噂されていた。近寄るとかわいい男の子はおちんちんを糸でくくって切り取られるという、あまりにも具体的で生々しい警話があり、実際切り取られた残りのおちんちんをつけたままの子を近くの銭湯で見かけたという同級生がいて森之宮たちは震え上がったものだ。一種の妖婆、幽霊か魔女か、そんなものに思えていたのだろう。 なぜそんなことを思い出したのだろう。とりあえず気を取り直して加藤さんのリストにある病院に片っ端から電話した。ちょうど13あった。13回目の落胆を味わいつつあったとき、ノックの音が聞こえた。すでに約束の時間を過ぎているのにずっと話し中で電話がつながらないことをドアボーイが心配して迎えに来たのだった。 ドアボーイに愛想笑いを一つくれてやって、森之宮はゆっくりベッドから立ち上がった。先を歩く黒人のドアボーイはまるで足がないかのように音も立てない。西洋の幽霊は確か足があるはず、日本人の自分にはヨーロッパにいてさえ日本式の幽霊を見るのかと、森之宮は暗い廊下のふかふかの絨毯を意味もなく踏みにじりながら思った。自分にはまだ足がある。でもアンジェにはもう足がないかもしれない。アンジェは、アンジェのことは、アンジェと自分の糸は、アンジェとの絆は、応挙の幽霊と同じ、ほの暗い城塞のどこかで。アリアドネの代わりにアンジェがくれた糸巻きは芯だけしか残っていない。 これで、一切の手がかりは、尽きた。 幽霊 第一部 完人気blogランキング投票よろしく 今日はどのへん?。