カテゴリ:近況
閉鎖的なポリシーが嫌いで、いままで敢えて拒絶していた某SNSに参加した。
そこには通常のサイトやブログと同じ様な個人のページがあり、BBSがありチャットが存在する。今まで、なぜそのSNSが人気なのか理解できなかったのだ。全部外にあるではないかと、機能も性能もほとんど変わらないではないかと、そう思っていた。しかし実際に利用してみてその人気の理由が少し分かった。 HP、ブログ、アルバム、BBS、フォーラム、チャット、ツイッター、アクセス記録。これらをひとまとめにした自分のポータルが自動的に作られる。しかも、携帯でもPCでも動作が軽くインターフェースがよく出来ている。鬱陶しいアフィリエイトなどは無く広告もあまり邪魔にならない。今まで何度かHPやブログを使って来たが、どこも一長一短で気に入ったものを選んでも、それをまとめるポータルはまた手間をかけて作らなければならない。個人が少ない時間と手間で構築するのは大変な事だ。だが、そこでは毎日数行書き、ちょっとリンクをたどるだけで自動的に誰かと近づきになれる。簡単。分かりやすい。こりゃハマる訳だ。いちいちHTML書くのはめんどくさいからね。自由度は低いけどちょっとやりたい事はこれで足りる。エンジニアでもプログラマでもないフツーの携帯メール感覚で出来ちゃうってのがすごいな。 とはいえ、SNSという1つの世界の中だけに多くを持ち込んでしまう人も結構いるのね。ずーっと音信不通だった友人が実はSNSのなかではもの凄く活躍していたり。非常に大勢のアクティブユーザーをかかえるフォーラムがあったり。これらはすべてwebの検索エンジンでは決して探せないそのSNSという閉じた世界での出来事。ググって見たものの全く見つからなかった事がSNSでは容易に見つかる。これがいいか悪いかは別として、みんな囲いの中で暮らすのが好きなんだろうか?外部との接触はいやなんだろうか?って思ってしまう。 だが、そんなSNSの中だけの住人が増えれば増える程、外部世界に情報が出にくくなり、様々なチャンスを逃してしまう事にも繋がる。実際情報を得られずに悔しい思いをした事は何度もある。 「ずっと知らなかったのは自分だけか。なぜ皆教えてくれなかったんだ?」 「それは君が訊かなかったからだろ?」 ネットによって面識のない知り合いが増え情報の共有がやりにくくなったのは事実だと思う。直接何度も会っていれば共通の友人の話題も出てきて、「友達の友達は友達だ」になっていくのだ。しかし、顔も知らず住処も性別すら不明の友人に共通の友人がいるかどうかなど聞き出すチャンスはまずない。 だから、この夏SNSに参加する事にした。 SNSでは「訊かなくても見に行ける」「教えなくても伝わる」というネット特有のコミュニケーションによって様々な物事が展開していく様に思えた。微妙な、絶妙な距離感と連帯感が設定され、演出される様になっている。おそらくその状況は逐一、SNS運営会社のサーバに現代人のコミュニケーションパターンとして蓄積されていき、新しいメディアや秩序を作る時の行動学、心理学などの資料に活用されるのだろう。 去年ガンで亡くなった友人の事をこのブログに書いた。闘病中、彼はチャットに来なくなり、メールの返事も無く。私が彼の安否を知るには直接会いにいくしか方法がなかったのだ。一昨年の夏は会って話せた。だが去年は既に会えなかった。 その1年後、SNSに残されたままになっている彼の日記を読み、彼を励ましてくれていた大勢のSNSの住人のメッセージを読んでいる。晩年の彼の様子がありありと浮かぶ。辛かったろう、苦しかったろう、でも、全然寂しくはなかったのだろうと想像できる。誰も彼に会う事はなかったかもしれないが大勢が見守っていたことがわかって良かった。 物置を整理していたらひいじいちゃんの文箱が出て来てなかからラブレターがたくさん出て来た。という話はよくある事だがその手紙の内容は親族の間でしか知る事はない。だが彼の場合は逆だ。おそらく日記や手紙と言う「遺品」の無い彼がどれほど多くの交友があったかはネットの住人だけが分かっていて、彼の家のすぐ裏に住んでいる親戚には永遠に伝わらないかもしれない。 残るべき事はちゃんと残り、知らされるべき事は最低限伝わり、そして消えるべきものが消えても誰も気付かないものだ。と言ってしまえばそれまでかもしれない。でも彼にはとてもたくさんの友人がいた事を今度線香を上げにいくときにでもご遺族に伝えよう。いつになるかは分からないけれど。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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