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・・・ということで、
昨日のブログは、失敗学のつづきを書こうと思っていたのに、従兄弟のこと書いてしまったという失敗をしてしまった。 従兄弟は、このまえ、オフロードのレースに出て、骨を折り、 もう、懲りたのかと思っていたら、そのあいだに読んだ本の影響で、最近、家をつくりはじめてしまった。 もとろん、建築会社など頼まない。 そのうえ、建築許可も関係なく、基礎と土台も自分で作ると、 骨組みから、屋根、壁まで作り上げてしまった。 あげくは、 自分で母屋から電線をひっぱって明かりまでつけてと、勝手に建築をはじめてしまっている。 まあ、田舎なので、周囲にも迷惑はかけてはいないようなのだが・・。 こちらも、失敗など、へのかっぱだ。 昨日、ほんとうは書きたかったこと。 失敗学の畑村教授は、失敗をおかしたとき、 日本人は、すぐに「責任」の追及の、犯人捜しをはじめてしまう。 それよりも、失敗の「原因」の追究をすること。 そのことこそ重要だというのだ。 その「原因」の追究も、客観的なものより、主観的なもののほうがいいというのだ。 具体的なものを山の遭難の例で書くと、 (例1) 「山にいった、温度20度、湿度60パーセント、 出発から、8キロ地点の分岐点で、道を誤り、遭難することとなる。」 (例2) 「山に行く朝、妻と口論した、むしゃくしゃしながら、家を出て、山にむかった、 分岐のところで、いつものなら見る地図をろくに見ずに、道をまちがえてしまった。」 この場合、(例1)の温度や湿度、距離など、 客観的とも思える数字のことよりも、 (例2)の妻と口論したことのほうが重要だというのだ。 そして、妻との口論、 そのことが引き金になって、いつも見ている地図も、確かめることはなかった。 その中に、遭難の原因が含まれるというのだ。 なるほどと、思った。 人間というのは、生理的な生き物である。 ものごとの判断を生理的な基準でおこなっていることは多い。 人間の好き嫌いなど、ほとんどが生理的なものだ。 あいつが言ったから、信じられない、 あの人の意見なら正しいと判断してしまっていることも多い。 生理的、感情的なものをおろそかにしてはいけない。 失敗が起きた時、責任追及に奔走するより、より具体的で主観的な原因追求をしたほうが、 ものごとの本質を解るのかもしれない。 営業でトップになる従兄弟は、営業のマニュアルどおりになんかしていない。 冷静に数字を分析してもわからないことのほうが多い。 もっと、生理的で感情的なもの、 ぐたぐたとした説明より、 あいつがくると明るくなる。あいつはおもしろい奴だから・・というようなレベルのことで、 車は売れていくのだと思う。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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