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カテゴリ:パーキンソン病
昨日散々看護師さんに文句を言って帰ってきたが、先生に伝わっているか気になって外来中の先生に電話をする。
昼過ぎに先生から改めて電話がある。 結論的には先生は「そんなにあせらないでいいじゃないですか。」ということだった。 そうなんだ、ここまで来て又少し薬を加えてみるとかいじっても、又精神症状が出ればやっぱりやめる、となれば又繰り返しになるだけ。 欲が深いのだ。自分が元気だから解っていないのは自分なんだ。少し良いともう少し良くしたい、と勝手に思っているだけなのだ。 本人の体調に合わせてこれからはゆっくり出来ることをやって、目の前のことを大切にする事こそ大切なのだ。 室生犀星という歌人がいたが、彼はいわゆる不義の子として生を受けたことで幼い時ある女性に預けられて育ったそうだ。その女性のところにはやはり同じような境遇の姉がいた。その姉が成人になると今度は身売りされて家から出て行く。 その時犀星は号泣したそうだ。 しかしその母は「これで私たちは食べていけるんだ」と言ったそうだ。 そんな時代はつい100年前までは当たり前だった。 生きるために、しかし命は粗末にはされていなかった。どんな境遇でも生きていく。このたくましさが今の時代には欠けているかもしれない。 少し前の新聞記事だが 愛を、人を愛して、皆を愛して、生きていればきっと生きられる。毎日を感謝して一歩一歩出来ることから、欲張らないで、元にもどそう。などと考えないこと 地球がいつまでも青く美しい星であり続けることを皆で願い続ければ良いのだ。 愛すれば幸福 長崎からの手紙 手紙の日付けは1949年2月28日「6年い組の皆様」で始まる。 長野県木曽町に住む上村三枝子さんは古い手紙を久し振りに読み返す機会があった。 その手紙は亡くなった夫が小学校の頃被爆で病床にあった永井隆博士からの手紙である。 当時小学校で永井博士のことを教えられた生徒たちは永井博士に当てた手紙を書いたその返事を皆で複写したものだった。 永井隆博士;1908年島根県生まれ、医学博士で放射線医学の研究で被爆し白血病になった。又長崎の原爆でも爆心地から700メートルの長崎医大診察室で被爆。 妻は自宅で即死。 救護活動を続ける中で、病床に伏し2人の子供を残して逝く心情や核廃絶の願いを描いた「この子を残して」「長崎の鐘」などを発表。 1948年にはヘレン・ケラーも見舞いに訪れた。その後1951年5月43歳で死去した。 手紙は「6年い組の皆様からお手紙をどっさり頂いてよろこびました。私たち3人の父子は幸福に暮らしておりますから、よろこんでください。 人間どうしは相愛し合ってゆきさえすれば幸福になれます。 人間どうしは相憎み相争ってゆきますと、いつまでも不安です。 世界が今二つに分かれているとよくいわれます。争いによって公平な分配をしようとするか、相手を見たらすぐ目を怒らして議論をするか、相手を見たらすぐにっこりして いたわるか。 この二つのやり方のどちらをあなたは好きますか? どうか、あなたの町で、愛の天使として貧しい人、かなしんでいる人、困っている人、病気している人、旅の人、さみしがっている子に小さい愛の言葉をかけるよう勤めてください。 1949年2月28日 長崎市上野町 永井隆 福島小学校のみなさま」 この手紙を子供たちにも読んでもらったが2人の子供たちは永井博士を知らなかった。 「58年たっても永井博士が夢見た社会に成れていないね。」と長男智仁(29)は言う。 永井博士は子供好きで手紙にはすぐ返事を書く人で、訪ねてくる子供には主治医の面会謝絶も無視して機嫌よく声をかけていた。と義理の娘の歌子さん(79) どんな時も穏やかに争わず、感謝して愛を持って過ごそう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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