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2013/09/08
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カテゴリ:テレビ番組から
前回のオリンピックから56年!
というと私は10歳!おや?確かオリンピックは高校生の時だった様に記憶しているけれどおかしいな?
あっそうか!7年後だからいいんだ!

10歳の頃はオリンピックが決まった事など全く興味がなかったし、テレビもまだ家にはない頃だったし、親もそれを話題にしていたかも記憶にはない。まだ戦後の復興期の延長線上にあった時代で、母からは戦争中の話し等が何気なく語られて、子供心に戦争の大変さを感じていた頃だった。

特に父の末の弟さんが特攻隊で南の島で戦死した話は幾度となく聞かされていた。
そして中学高校と質素ながら平和な時代が流れ、高校3年生の夏、オリンピックが開催された。
その頃にはもちろんテレビは家にあった。

高校3年生の夏、初めて見る聖火、長い階段を上って行く聖火に心奪われていた。入場行進に日本選手団が真っ赤なブレザーで更新していた姿をテレビで見たのか、その後のニュース映画で見たのか定かではない。

テレビが初めて家に来たのがいつだったのかも定かではなく、最初は白黒テレビだったから、オリンピックを理由にカラーにしたのだったかも定かではない。
いずれにしてもテレビにくぎ付けだったのは覚えている。

三宅選手の重量挙げ、女子バレーボールのすさまじさ、陸上競技から水泳、ハンマー投げなどという競技も初めて?見るものだった。
我が家では唯一、母が大正4年生まれだったが女学校時代は陸上の選手ですごく早く、いつも校庭で走っていたことを、自慢話として母自身から聞かされていた。

オリンピックが終わり私は受験体制に突入するのだった。

今の子供たちは習い事は沢山している時代だが、私が子供の頃は習い事は割合恵まれた家庭の子の物だった。12歳年上の一番上の兄の勧めで私は、小学校1年生の時からピアノを習わせてもらっていた。先生は武蔵野音大を出た厳しい先生で、私は音大を目指すという前提でその先生に預けられたようだった。

自分もその気になってかなり頑張って毎日練習に励んでいた。
そして高校受験という時が来た。音大に行くコースの人は当時は女子高を選んでいた。しかし私はまだ女子の好きなかった男子校を選んでしまったのだった。これが私の人生を大きく変えてしまうきっかけになった。

当時父は私を励ますつもりで、6歳上の「下の兄さんを見習え」と言っていた。その兄はまじめで優等生で当然当時東大生だった。私は悔し紛れに「私だって受かって見せるわよ」という事で男子校を受けたのだった。

そして高校生活が始まり、男子の色々な活動ぶりを目の当たりにし、兄が入っていた英語班にも入会し、自分の行こうとしていた音大というコースがなんだかすごく狭い世界のようにかんじてしまったのだった。ただ、この頃、上の兄がピアノの先生と少し気まずくなっていたらしく、それも影響していたかもしれない。

そして私は自分の判断でピアノを止めると決めてしまったのだった。それからは趣味で楽しむ程度のピアノになり、部活にのめり込み成績は落ちて行った。そしてオリンピックの年高校3年生がやってきた。

進路を決めかねていた私は夏休みの時、新聞の家庭欄に紹介されていた日本女子大家政学部住居学科を知る。そして即そこを目指すことに決めたのだった。しかし担任の先生には「今の成績では無理だな」と言われてしまったのだった。

しかし私はもうそこしかないと決めていたので、オリンピックが終わって秋になった時下の兄も参考書を買うのを手伝ってくれて、私の猛勉強が始まったのだった。そして年が明け2月になり大学受験となった。

どうにか無事に受かる事が出来て私は建築設計という世界に入る事が出来たのだった。
代々木体育館を設計した丹下健三氏も身近な人に思えてきた。大学のお仲間で何度か見学に行った。建築設計の世界は本当に楽しい世界であった。

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最終更新日  2013/09/09 10:16:57 AM
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