たぶん、世界中のありとあらゆる場所で語られていると思う。
ジョン・レノンが凶弾に倒れた日だ。
山口小夜子さん関連のものを探してたら、出てきた
↓
日刊スポーツ 1980年12月10日号
なんで、12月10日なのかがちょっと不明。
王選手が引退したとき記事こちら には青字だったんだけど
ジョン・レノンが亡くなったっていうのに、モノクロなんですね。
このとき、ジョンが40歳、オノ・ヨーコが47歳
1981年に来日公演も内定していたらしい。
ダブル・ファンタジーのジャケットを撮ったのが篠山紀信さんで
その紀信さんと湯川れい子さんが顔写真付きのコメント。
ジョンとヨーコの息子さんのショーンが、まだ5歳、っていう以外は、申し訳ないけど、
たいしたこと言ってない。
あとは、深沢七郎さん、寺内タケシさん、後に自ら命を絶たれた井上忠夫さん、
元気に活動してる加藤和彦さん、もんたよしのりさんがコメントしてる。
...けど、引用するほどのものは、ナシ。
こちらではビートルズやジョンの簡単な略歴?みたいなのと
渋谷陽一(なぜか呼び捨て。シンパシー込めて呼び捨て)が、
(渋谷陽一関連記事こちらとかこちら)
入魂のコメント
ロックはまた一つ、重い死を引き受けることになった。
ビートルズのデビューをロックのスタートとしても、まだ二十年に満たない歴史の中で、ロックはあまりにも多くの死を見つめてきた。われわれはいつの間にか、そうした死に慣れ親しみ、よほどのことでもない限り驚かなくなっている。しかし、今回のジョン・レノンの死は、あまりにも唐突であり、そして理不尽であり、僕はいまだに混乱したままだ。
ジョン・レノンは、数多いロックミュージシャンの中で、本当の表現者としてのディーモン(悪霊)を持った数少ない天才の一人であった。彼はその表現者としてのディーモンに身を引き裂かれ、僕たちはその傷の深みを確認するために彼のレコードを買った。
僕ら世代のロックファンにとってジョン・レノンは存在そのものが支えであり、励ましでもあった。彼は常に自分が世界の中で孤立した存在であると感じ、その孤立感から脱するために、作品に向かった。当然のこと、その作品の中には僕たちに向けての強い参加の呼びかけが込められていた。彼の作品の中に僕たちは自分たちの孤立感を見、ジョンの呼びかけに励まされたのである。
正直いって、いまだに混乱したままだし、ひどく落ち込んでいくのがわかる。数時間前に知った彼の死は、僕の中で落ち着き先を見つけることは出来ずにいる。なんだかよくわからないままだ。
アメリカという国家は、いつもジョンに冷たかったし、
あの9.11のとき、あの国は『イマジン』を流すことを禁じた。
そのことは、よく覚えておこう。
さて、もしジョンが生きていたとしたら、
あのとき彼は何と言っただろう?
『イマジン』を歌うのか、それとも沈黙か。
あるいはジェーン・フォンダのような転向か...それは、ないな、たぶん。
←とかさ、なんかみょ~に ポチ!
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さてと、いつものワシに戻るか。
一面左側の見出し
田淵と奥さんが別れて、奥さんが離婚について語ったらしい。
あとさ、巨人にド軍・強打一塁!?っすよ。
ド軍つってもドイツ陸軍とかではない。ドジャースで~
あの、巨人軍最大のハズレ助っ人トマソン
トーマッソンって書かれてて、最初誰だか分かんなかったっすよ。
彼の名は、赤瀬川源平の路上観察「トマソン物件」「超芸術」として、その後も残るのであった。
...あひりえいとしようとしたら、やっぱり当然、ナシっすよ。
あ~も~!ア○ゾンのあひりえいとでもしちゃろうかね!
と思ったらあった。超芸術トマソン
赤瀬川源平じゃあヒットしないアフィリエイトリンク...役に立たない!!