思い出は消えない生きがい:名古屋・京都・広島―写真交換会10
4か月ぶりの『名古屋・京都・広島―写真交換会』ネタだけどそれにかこつけた硬派記事の2です。ま、昨日の記事ほど重くはない。【その1】人間のおかあさんが京都のホテルにチェックインしたとき、フロントの方に「和菓子をお部屋にご用意いたしておりますので、よろしければお召し上がり下さいませ」とか、たいへん好ましいことを言われて、お部屋に行ってみてもテーブルの上やらなにやら、いっしょけんめ探したけどないんだな、これが。さんざん探し疲れて、諦めかけて、ふと見てみたら、あった!こちら↓冷蔵庫のなかっ!お部屋ぢゃなく、冷蔵庫の中って言ってくれよ~!(北海道のホテルや旅館では、テーブルの上に置いてあるのです~)ま、昔風に言えば「和生」だから、冷蔵庫なんだろうけども~!これってば、「思い出」です。たぶんいつまでも忘れないし、これ思い出すとくすっと笑っちゃったり人に話したくなったりね。そういう「思い出」【その2】広島の宮島、実は周囲の景観がびみょーこちら↓...ってか鳥居?の向こう、ジャスト山の中腹という絶好のロケーションにある白い建物宮島の風情や景観を台無しにしてるあれなんですか~?謎っ!!なんでも、某宗教団体のなにものかであるらしい。笑った後に呆れちゃうぜ!これも、「思い出」です。宮島のこと思い出したら、「ね~ね~、知ってる?」って言いたくなっちゃうような。しかも、正真正銘、「生きがいとしての思い出」生きがいっていろいろあるし、このときの人間のおかあさんは北欧視察に続いて旅行づいていて、「旅行が生きがい」の時期だったのでは?と推測されます。ほかにも、その方その方の体験や生き方、生育歴によって孫が生きがい、仕事が生きがい、庭いじりが生きがい、お友だちとの歓談が生きがい、パークゴルフが生きがい―いろいろな生きがいがあるわけですし、そういう生きがいはとてもたいせつなかけがいのないものでしょう。でもね、それじゃあその、会ってる/やってる瞬間だけが生きがいかって言うと、もちろんその瞬間は大事だしかけがいのないものかもしれないけども、たぶん/絶対違いますよね。孫に会った、仕事や庭いじりや旅行、それとお友だちとの歓談の記憶=思い出が生きがいではないのでしょうか?とても大事で大切なのは「思い出」しかも「生きがいとしての思い出」こういう思い出は、「思い出話」っていうかたちでずうっと語られていきます。人間のおとうさんはそれをだいじにだいじにしていきたいそう思います。いんげさんがおっしゃているのも、そういうことなのでは?とか、思います。だから人間は、過去を語るのです。それは、単なる情報提供などではなく生きがいとしての思い出の反芻なのです。「思い出」は、さらに「生きがい」は、だから、「繰り返し何度も語る」そういうことなのではないでしょうか?こちらの傾聴の技量が問われるのはこういうときです。膝をつき合わせてする傾聴だけが「集中すること」ではないのです。耳をすませば、わたしたちがちょっとだけ耳をすませば聞こえてくる、歌うような言葉それは、かけがえのないものだと思います。だからさ、聴こうよ!←聴こうよ! ポチ!人気blogランキングへ←黙って、静かに、じっくりとさ! ポチ!あ!硬派でごめんね~!んでもって、こちら↓重さ○十キロのワンコを背負う甥っ子こりゃ~、重いで!失礼しました~!...硬派の話、台無し?