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カテゴリ:暮らし・健康・医療
ストレートなタイトルである。
しかし、本著の中身はよりストレートだった。 私は、本著のタイトル「なぜいま死んではいけないのか?」から、 「自ら命を絶つことの否定」というメッセージを感じ取ってしまっていた。 しかし、本著が扱おうとしているのは、そんなレベルのことではなかった。 それは、「いま死んではいけないのか?」という段階の問いを遙かに飛び越えた、 「なぜ生きなければならないのか?」という、生きること自体への問いかけ。 それはまさに、私がこれまで生きてきた中で、答えを求め続けてきた問いだ。 しかし、残念ながら、本著にその答えが明示されているわけではない。 私は「無用塾」という哲学塾を主宰しているが、 そこにはこういう問いだけを見つめて生きている青年たちがいる。 どうせ死んでしまう。 だから、何をしても虚しい。 とすると、なぜいま死んではならないのか。 彼らは私にこう問いつめる。 私は答えられない。 どうせ死んでしまうのだからこそ豊かに生きよなどという気休めは、 すさまじく真剣な問いの前では砕け散ってしまう。 私もそう信じてはいないのだから、そう答えるわけにはいかない。 この問いは「ほんとうの問い」なのである。 だから、真顔でこう問われた者は言葉を失うのだ。(p.126) 「どうして死ななくてはならないのか?」 何度考えても割り切れず、理不尽なこととしか思えないが、それが現実である(多分)。 そもそも、生まれてきたことそのものが、 当人にとっては、言いようがないほどに理不尽なことなのかも知れない。 自分が望んだわけでもないのに、突如この世に誕生させられてしまった。 そしてその瞬間には、親や環境や自分の肉体や容姿や様々な能力等々のかなりの部分が、 既に決定済みの事項であり、自分の意志や行動で変えることができない。 そして、その限られた条件の中で生き、やがて死んでしまうのである。 「こんなに誠意を尽くしたのに裏切られた」 「こんなに一生懸命に努力したのに評価されなかった」という泣き言は 子どもの泣き言である。 人生においては、いくら誠意を尽くしても裏切られることがあり、 いくら一生懸命に努力しても評価されないことがある。 しかも、当人に落ち度はない。 すべてが当人の努力を超えたところで決定されているのだ。 このことを知って、われわれは肩を落として沈黙する。 こうした崇高なほどの理不尽を前にして、 小学生以来学校で学んだ知識や学問が何の役にも立たないことを知る。 だが、このことを骨の髄まで知ることは、正真正銘の生きる力になるのだ。(p.93) ここで言う「正真正銘の生きる力」とは何なのか? その後の文章を読んでも、その答えは明示されていない。 この世のすべては、 そして、生きるということは、理不尽なものであると知ること。 それを知ったうえで、なお生き続けようとする力、 それが生きる力なのか。 *** 「ひとりで飯を食う楽しみ」(p.140~)の偏食に関する論述は、たいへん面白かった。 一方、「半隠遁の生活」を過ごすことのできる著者は、 特殊な環境、条件下(何と言っても経済面の環境)にあるとしか思えない。 だれもが目指すことが出来る生き方ではないだろう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2010.02.21 16:09:53
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