|
カテゴリ:その他
![]() しかしながら、同じページの中に様々なサイズのフォントが用いられていたり、 また、余白部分もかなり広かったりするため、読み進めるスピードは速くなり、 読了までに要した時間は、最初に予想したものより、かなり短くて済みました。 *** 自分で勝手に期待し〔①〕 それに応えなかった相手へ〔②〕 自分が勝手に怒り始める〔③〕 全部、独り芝居じゃないか。相手からすると、いい迷惑さ。(p.60) これは「第2章 怒れるヒーロー」の「人間が怒る、たった1つの理由」に出てくる一文。 この後に「相手の行動は、変えられない。でも自分の期待値は、変えられる」、 さらに「自分にも、他人にも、世界にも、相手にも期待してはいけない」とした後、 「世界は、どうしようもない奴らの集まりだ」と締めくくっており、まさに悪魔の言葉。 「わたし」が始まる時、いつも同時に「せかい」が始まっている。 「わたし」のスタートと同時に、目の前には常に「せかい」が起動されている。 果たしてこの「せかい」とやらは、 「わたし」が始まる前にも本当にあったのだろうか?(中略) 問いたいのは、この「わたし」が発生していない時の「せかい」の実在性なのだ。 そして、それはあきらかに不可能だ。 「わたし」なしでは、「せかい」を確認する方法がない-。(中略) 朝のまどろみの中で、「世界は私と同い年」と言った教授の感覚が、 なんとなく分かった気がした。(p.296) これは「第8章 『宇宙システム』の始まり」の「世界は脳の中にある」に出てくる一文。 これは、よく分かります。 なぜなら、私も昔からずっと、こんな風なことを考えていたから。 同じように考える人が他にもいたんだと、ちょっとした感動すら覚えました。 自分の目の前に見えたり、聞こえたり、感じているものしか、 自分にとって『真に確かなもの』などないわけですから。 でも実は、目の前に見えてたり、聞こえたり、感じていると感じているものですら、 『真に確かなもの』とは言えないのかもしれません。 ただ、そういう風に脳が情報処理するよう、何者かに仕向けられているだけ…… この「せかい」は、まさに映画『マトリックス』のような、ただの仮想現実なのかも。 本著を読んでいて、また『クラインの壺』を思い出してしまいました お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2022.12.25 16:41:25
コメント(0) | コメントを書く |