『博士の愛した数式』小川洋子(新潮文庫)
瀬戸内海に面した小さな町で家政婦をしている私は、1992年の春にあけぼの家政婦紹介組合から「80分しか記憶がもたない」数学博士のもとに派遣された。雇い主の義姉、博士本人、私の10歳になる息子との途惑いと驚きの日々。記憶がとどまらない病気と数学的論理のおもしろい話の取り合わせが、なるほど話題に。どちらに興味を持つかで趣が変る。読み始め、私は紙と鉛筆を携え、試してみたりしてしまったよ。素数など好きだなーと思ったり。そのうちに本文に引き込まれ、数字の論理はどうでも良くなった、というか解らなくなったが…。忘れっぽいといっても悲しむことはない。それが突発的な事故によるものであっても、老化現象の一端であったとしても気の毒がることはない。忘れるもの幸いなるかな、もし人間忘れられなかったら悲劇である。身近に認知症を経験すればわかるけど、尊厳を忘れず、がっかりせずにいれば、何かしら得るものがあるのはほんとうである。報いられない、けれど、逃れられないのも事実だ。義姉が嫉妬しつつあきらめ「私」が手伝いに来たことによって、博士の人生が輝いたのは示唆に富む。繰り返し作者は述べているが、かたちのないものの存在を愛でているのである。それは文学上の普遍である、常道である。こんな文学と数字の取り合わせは物珍しく、やっぱり、小川洋子さんの目のつけどころに興趣がわく。映画化されるという。深津絵里さんはどんな家政婦さんを演じるのかな~。