カテゴリ:読書のココロ(エッセイ・その他)
ひとの日常の中心には,いまここに在ることの原初の記憶がひそんでいる。 たたずまう樹が思いださせるのは、その原初の記憶なのだ。 人はかつて樹だった。 だが今日もはや、人は根のない木か、伐られた木か、 さもなければ流木のような存在でしかなくなっているのではないだろうか。 (中略) 『人はかつて樹だった』二十一篇は、 思わぬがんの告知をうけた家人に付き添って、 傍らに、樹のように、ただここに在るほかない、この冬からの日のかさなりのなかで編まれた。 ( 本書 あとがき より ) どうして、わたしたちは 騒々しくしか生きられないか? 世界のうつくしさは たぶん悲哀でできている。 本書の最初の一編「世界の最初の日」という詩の結びの一節だ。 あとがきにも書かれている通り、 ただここに在るほかない樹という存在が 頭脳を持った人間よりも、自由に空を旅する雲よりも、ずっと自由な存在であると著者は詩う。 自由とは、どこかへ立ち去ることではない。 考えぶかくここに生きることが、自由だ。 樹のように、空と土のあいだで。 ( 「空と土のあいだで」 より ) 病床での、看病の様子が垣間見られる一編だ。 看取る側、看取られる側、 互いの気持ちが解け合い、 身体はおおきく動かずとも、 ふたりの魂は、風のように自在であり、 そして、しっかりと土に根を下ろした精神は やがて大地に還ってゆく。 どんな惨劇だろうと、 森のなかでは、すべては さりげない出来事なのだ。 森の大きな樹の後ろには、 すごくきれいな沈黙が隠れている。 みどりいろの微笑が隠れている。 音のない音楽が隠れている。 ことばのない物語が隠れている。 ( 「森のなかの出来事」より ) * * * * 人間のものでない世界に死はない。 死は再生にほかならないからだ。 ( 「緑の子ども」 より ) 世界は廻っている。 食物連鎖もそうだし、 森の樹々もそうだし、 水や大気の循環もだ。 なのに、愚かな人間は 人間だけはそのサイクルの外にいると考えている。 こんなに頻繁に自然が警告を発する世の中になってきてもだ。 だから、魂が廻ることも 素直に受け入れられずに 色眼鏡でしか見られないのだ。 スピリチュアルとオカルトの区別がつかないのだ。 人間、死んだら終わり、と考えるから 我が儘放題好き放題ができるのだ。 森の木の葉が枯れ落ちて、 腐葉土となり、そこから新しい樹が芽吹くように 魂も廻る。 信じていてもいなくても それが自然の、この世の法則なのだから。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2009.12.28 00:09:30
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