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昨日お越しの客人との会話は、祇園祭の事から派生して、京都の旧い話題で 盛り上がった。
『洛中洛外屏風』と言うのは 京都の昔の人の営みが 詳しく描かれていますが 京都の 中と外という意味だと思いますが この『洛』と言うのは 中国の『洛陽』に因んでつけられたのですか?」 と。問われた。 何度か本サイトで取り上げている話しをした。 『桓武天皇が都を開くに相応しいとされる四神相応の適地を山背の地に定め 遷都の詔が発せられたのですが 中央 朱雀大路を挟んで 東半分を『洛陽城』西半分を『長安城』と 城や堀割を築いた訳では無く 東西の街区をその様に呼ぶようになったのですが。長安城街区は、地勢が悪く人が住む事も無く平安時代末には元の荒蕪地に戻ったといいます。東側洛陽城街区は 発展 歴史の表舞台として華々しく今に続きます。遣唐使を唐の都に派遣した先は 唐の長安 平安京は 当然の事ながら 長安をモデルとして造られたと思いますが 洛の名が残っているのは そういう事情が有ったのです。』 何でも良くご存知ですねと言われたから こういう事に詳しい人に聞いた話しを しっかりと覚えているだけです。と答えた。 桓武天皇の詔から 千百年を迎える明治二十年代の始め 大極殿跡地に 復元の話しが出て 現実に用地買収が始まったが 抵抗が有り 又大勢の人の立ち退き補償の交渉も出来ず 結局 洛東 岡崎村に 平安神宮を造営する事になりました。 時代祭の開催日は 桓武天皇が遷都の詔を発せられた日に因んでます。 朱雀大路 何時の頃からか 『千本通り』と呼ぶようになりました 昔の葬送の地 蓮台野に至る 『千本塔婆』が千本通りの由来と聞きました。 『ここで 散髪すると 賢くなれるな』と言われたから 『エー加減の話しです』と返しておいた。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2024.07.12 06:42:16
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