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絵を描く事だけに人生の全てを捧げた孤高の画家、田中一村の最も有名な作品「アダンの木」です。 1977年9月12日、彼は奄美大島・名瀬市郊外のあばら屋で事切れているところを隣家の人に発見されました。 前夜、独り暮らしの夕食の準備をしている時に、突然倒れたのでしょう。 粗末な台所には、ごはんを煮こんだ作りかけのおじやが一人分残されていたそうです。 床には刻んだキャベツの入ったボールがころがっていたといいます。 生涯独身だった一村の、誰にも看取られない最期でした。 享年六十九歳。 心不全だったそうです。 **** 1980年3月、当時NHKのディレクターだった松元邦暉氏は、ある一枚の絵と運命的な出会いを果たします。 それは、取材の途中に偶然立ち寄った奄美大島・名瀬市のダイバーの家の壁に貼られた一枚の魚の素描でした。 南の島の民家の壁に無造作に貼られた一枚の絵・・・、その絵に何故か心惹かれた彼は、思わず尋ねていました。 「この絵の作者について教えて欲しい」 永遠に止まってしまったかの様に見えた時計の針が・・・・・・静かに動き出した瞬間でした。 自ら画壇を捨て、千葉から奄美大島に独り移り住み、粗末なあばら屋で食べるのもやっとの清貧の中、大島紬の染色工をしながらこつこつとお金を稼いではギリギリまで生活費を切り詰め絵の具を買い、十数点の奄美の絵を遺して3年前になくなった画家・・・・田中一村・・・・そして松元氏は、まさにその魚の絵の主こそが、田中一村その人であるという事を知ります。 田中一村の作品とその生き様に魅せられた彼は、それから取り憑かれた様に渾身の取材を続けます。 かつては天才と謳われ援助を申し出る理解者や支援者も少なくはなかったにも関わらず、金で作品を買われる事を嫌い、そして批評家と衝突する事も多かった事。 やがてある出来事をきっかけに自ら画壇と決別し奄美大島に独り移り住む決心をする・・・その残りの生涯を全て絵に捧げる為に・・・ 画壇はそんな彼を異端の画家と呼び、彼の名は次第に忘れ去られてしまう。 才能に恵まれながら、若くして両親と兄弟を次々に亡くし自らも病によって倒れ生活に終われた不遇の画家人生。 次々に世に出て成功していく同級生の姿を、一村はどんな想いで見つめたのだろう。 取材は大変困難だったようですが・・・・取材を進めるにつれ、不遇の天才画家の「孤独と狂気にも似た独特の世界」が次第に浮かび上がってきました。 そして1984年 NHK教育テレビの日曜美術館「黒潮の画譜~異端の画家田中一村」で、彼の生涯と共に、その遺作が紹介されました。 松元氏の渾身の取材が、こうして一人の画家を再び世に送り出したのです・・・・孤高の画家、田中一村として。 ***** 田中一村はなぜ、自ら画壇を捨て独り南の島に移り住み、生涯独身を貫いてまでストイックなまでに人生の全てを絵に捧げたのでしょうか。 文字数制限により、この続きは次回・・・(一村の晩年の貴重な姿や他の作品も併せてご紹介します) 南国の草花の絵に惹かれます。 先日ご紹介したクッションカバーとかコースターとか。 一村の絵を見ていると、心がざわざわしてきます。 いつも応援ありがとうございます 良かったらクリックお願いしま~す ↓ お手数ですが、良かったらこちらも是非クリックお願いします! ↓ にほんブログ村 人気blogランキングへ 私のメインのサイト 「猫のあくび」 は、幸四郎の沢山のムービーや写真、シンガポールの知られざる魅力、大好きなアフリカ旅行について紹介しています。 ケニアのロッジの様子や、サファリで出会った動物達を沢山のムービーでご覧になれます。 東アフリカに興味がある方は、必見です。 是非遊びに来てくださいね。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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家に母が買った田村一村さんの画集が
確かありました。あまり無駄使いをしない母が 買い求めたものなので、よほどほしかったのでしょう。以前日曜美術館で特集があったとのこと、たぶん それをみて母も心引かれたのだと思います。 幸太郎ママさんがたくさん調べてくださっている ので、日本の母のことを思い出しながら ゆっくり読ませていただきますね^-^ (2009.09.23 19:25:06)
みけ奥さん
そうですよね、絵画展を見に行くことはあっても、画集って余程の事が無ければあまり買う事ってないですよね。 私もたった一枚のこの絵が発するもの凄いオーラにやられた一人です。 (2009.09.23 19:58:36)
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