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2010年11月17日
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マーシャル諸島の島々を奪取したのち、満を持して、さらに兵力を蓄えたアメリカ軍は、昭和19年(1944年)6月マリアナ諸島攻略を開始しました。

マリアナ諸島がアメリカ軍の攻略目標にされたのは、新型爆撃機B29 が完成したことにより、マリアナ諸島を基地として、日本本土を空襲攻撃できるようになるからです。

マリアナ諸島を失えば、日本本土が空襲圏内になることは、日本側もよく分かっていました。それで、マリアナ諸島に4万人以上の守備隊と、空母9隻を中心とする大艦隊を派遣して、守りを固めました。

マリアナ諸島・カロリン群島マーシャル諸島などの南洋諸島は、元々ドイツ領だったのを、第一次世界大戦での戦勝の結果、日本の委任統治地とされ、実質的に領有したものです。

南洋庁はパラオ諸島のコロール島に置かれましたが、日本に近くて大きいサイパン島は、南洋群島の中心地で、民間人も多く居住していました。

アメリカは、日本艦隊を上回る、新鋭航空母艦15隻を擁する機動部隊をマリアナ沖に進攻させ、サイパン島攻略に備えました。

                    ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・

昭和19年(1944年)6月15日早朝、アメリカ軍がサイパン島に上陸を開始しました。サイパン島の日本軍基地と軍用機は、上陸前の空爆でほぼ壊滅状態になっていました。

日米両海軍は、昭和19年(1944年)6月19日から20日にかけて戦いました。マリアナ沖海戦です。2日間の海戦で、日本は航空母艦3隻が撃沈され、艦載機もアメリカ側の損害の3倍を超える378機を失いました。


        マリアナ沖海戦
      マリアナ沖海戦・アメリカ空母バンカーヒルに日本の攻撃機が急降下爆撃

アメリカ側は沈没した艦船は無く、艦載機123機を失ったのみで、明らかなアメリカ海軍の勝利でした。

のちのアメリカ大統領・ブッシュ(父親の方)は、この海戦で艦上攻撃機に搭乗していましたが、日本機に撃墜され、海上で救助されたとのことです。

6月15日、サイパン島の西側から、味方の砲爆撃に守られながら、アメリカ海兵隊2万人が上陸しました。アメリカ軍は、島のアスリート飛行場の奪取を目指して進撃。これを阻む日本軍と猛烈な戦闘を繰り返しました。


        サイパン島上陸
                  サイパン島に上陸するアメリカ兵

激戦の末、3日後、日本軍はアスリート飛行場を放棄。その翌日のマリアナ沖海戦で日本海軍の機動部隊が敗北したため、救援の望みを絶たれた日本軍は、島中部の山中で抵抗を続けました。

そのころ、マリアナ沖海戦敗北の報を受けた日本の大本営は、やむなく、サイパン島の放棄を決定しました。

見捨てられたサイパン島の日本軍は、それでも徹底抗戦しましたが、戦車も大砲もなくなり、食糧・水も乏しくなっていました。

昭和19年(1944年)7月7日、追い詰められた日本軍約3千名は、最後の総攻撃を敢行して、全滅、玉砕。7月9日、アメリカ軍はサイパン島の占領を宣言しました。

しかし、ごく一部の将兵は、山中にこもって、翌年の敗戦の年の12月まで、ゲリラとなって残っていたと聞いています。

サイパン島には、他の島からの非難者を含めて、約2万人の民間人がいました。事前に女性・児童・老人を日本へ帰国させようとしましたが、すでに島の周囲はアメリカの潜水艦に包囲され、民間人の帰国船も撃沈されました。

多くの民間人は、アメリカ兵に捕らえられるのを良しとせず、追い詰められた断崖から海に飛び込み、自決しました。帰国船の撃沈を知って、”残虐な鬼畜米英” の捕虜になるのを拒み、「天皇陛下万歳」を唱えて自殺したと聞いています。

戦闘終了後、収容された民間人は約1万5千人。このうち先住民と朝鮮半島出身者が5千人。自決または戦死した日本民間人は、ほぼ1万人に達したとみられています。

                    ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・

サイパン島を攻略したアメリカ軍は、次いで 7月24日、その南の島・テニアン島を攻撃、上陸しました。アメリカ海兵隊5万4千、迎え撃つ日本守備隊は、陸海軍合わせて8千5百。


        テニアン島上陸
                 アメリカ海兵隊、テニアン島に上陸

アメリカ軍は島の南西部と北西部から上陸、猛烈な砲火を浴びせて、日本軍を次々に壊滅させ、日本軍を南の高地に追い詰めました。

8月3日まで、日本軍は数度の反撃を敢行しましたが、ほぼ全軍が壊滅、玉砕して、組織的戦闘は終結しました。

テニアン島にも民間人1万5千人がいましたが、守備隊の司令官が、最後に「軍と共に玉砕することはないぞ」と諭したので、サイパン島のような民間人の犠牲は少なかったそうです。

                    ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・

テニアン島上陸に先立つ 7月21日、アメリカ軍がグァム島に上陸しました。ほかの島のときと同様、前もって戦艦による艦砲射撃と空爆を行なっての上陸です。

グァム島は元々アメリカの領有地でした。それを 9月16日のブログ にも書いたように、対米英戦争開始直後に日本軍に占領され、アメリカとしては、威信をかけて奪回する必要がありました。


           グァム島上陸
              グァム島上陸直後に星条旗を掲げるアメリカ兵

このとき、マリアナ諸島守備の日本軍司令官はグァム島にいて、指揮をとっていました。日本軍の頑強な反撃で、始めはアメリカ軍も進撃を阻まれましたが、物量と兵数に勝るアメリカ軍に押されて、次第に追い詰められてゆきました。

両軍とも、サイパン島戦に次ぐ死傷者を出しての激戦を続けましたが、8月11日に日本軍司令官が自決し、日本軍の組織的戦闘は停止。サイパンテニアンに次ぐ玉砕といわれました。

アメリカ軍による、サイパンテニアン両島の占領は、日本にとって重大な問題で、その後の戦争遂行に、深刻な影響を及ぼすことになりました。

             * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *

グァム島は、サイパン島テニアン島の5倍くらい広く、日本軍全滅玉砕と言われたとき、島の奥地にこもった少人数の将兵がありました。

昭和47年(1972年)1月、一人の日本兵が、グァム島のジャングルにいるところを地元民に発見され、拘束されました。名前は横井庄一。陸軍での階級は伍長(ごちょう)。日本の降伏を知らず、最後の一人になって、島のジャングルの中に地下壕を掘って隠れ住み、野性の動植物を採って食べ、生き続けていました。

取調べののち、横井は、同年2月2日に日本に帰還しました。日本の敗戦から、実に27年。横井は57歳になっていました。横井が羽田空港に降り立ったときの第一声は、「横井庄一、恥ずかしながら帰ってまいりました」でした。

横井は、郷里の名古屋に住み、求めに応じて、グァム島でのサバイバルの体験について、全国各地を講演して回り、平成9年(1997年)に82歳で死去しました。

  





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最終更新日  2010年11月17日 12時07分52秒
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