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それでは、また、昭和20年(1945年)の昔に戻りましょう。
昭和20年(1945年)8月15日、ポツダム宣言全面受諾の玉音放送を終えて、鈴木内閣は総辞職しました。そして、2日後に、東久邇宮稔彦王(ひがしくにのみや なるひこおう)を首班とする内閣が成立しました。史上唯一の皇族の総理大臣です。 東久邇宮稔彦王(出典 Wikipedia) 東久邇宮稔彦王は、久邇宮(くにのみや)朝彦親王の九男、香淳皇后の叔父に当たり、このとき57歳。現役の陸軍大将でした。 昭和16年(1941年)のアメリカ・イギリスとの開戦前、東条英機は、自分よりも稔彦王を総理大臣に立てたいと望んだそうです。皇族の総理大臣の下で戦争を始めれば、国民がいっそう結束すると考えたのでしょう。 でも、この案は木戸内大臣が強く反対しました。もしも戦争がうまく進展しなかった場合、戦争責任が、天皇を始め、皇室、皇族、全体に及ぶのを懸念したためです。 その皇族内閣を敗戦直後に立てたのは、降伏に不満な各地の将兵を納得させるため、また、敗戦を不安に感じている国民を少しでも安心させるため、だったと思います。 東久邇内閣発足(出典 Wikipedia) 大臣の顔ぶれを見て驚いたのは、近衛文麿が無任所(むにんしょ)大臣として入閣したことです。稔彦王と親しく、相談役としてということでしたが、敗戦という事態になって、この人物は、自分の政治責任・戦争責任をどう思っているのだろうかと、呆(あき)れました。 さらに呆れたのは、稔彦王が記者会見で、 「 国体護持、一億総懺悔(ざんげ) が日本再建の第一歩」 と言ったことです。 国民の多くは、天皇が宣戦布告をして、布告文の中で 「衆庶はおのおのその本分を尽せ」 といわれたから、その命令どおりに戦争遂行に身を投じて、大きな犠牲を払ったのです。 その国民大衆が、なぜ懺悔しなければならないのか。懺悔すべきは、国の上層部にいた人たちと、それに便乗した者どもではないか、と反発を買いました。 稔彦王や近衛文麿らは、敗戦によって、国民の中で、共産主義や天皇制廃止論が広まり、革命が起こることをもっとも恐れていたようです。そのために、GHQ(General Headquarters・連合国軍総司令部)からの内務省解体の指令実行をためらいました。 戦前・戦中の内務省は、現在の自治省と違って、特高警察を含む警察権力を握っていました。この解体と、思想犯・政治犯の釈放、内務大臣と内務省幹部の罷免をGHQに迫られ、東久邇内閣はわずか50日で総辞職しました。 敗戦で茫然自失し、これからどうしたらよいのか、生活はどうなるのかと、不安におびえる国民大衆にとっては、何の役にも立たない皇族内閣でした。 * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * 鈴木貫太郎 は、軍事教練の教師として、学習院に派遣されたことがあり、そのときの教え子に 吉田茂 がいました。その後も交際が続き、吉田茂は総理大臣就任に際して、鈴木貫太郎に総理としての心構えを聞いたことがあるそうです。 その吉田茂に、日本の将来を託した鈴木貫太郎は、昭和23年(1948年)4月17日、80歳で亡くなりました。遺灰のなかに、二・二六事件のときに撃たれた弾丸があったと聞いています。 東久邇宮稔彦王は、昭和22年(1947年)10月、宮家の皇族離脱により、東久邇稔彦(ひがしくに なるひこ)と名乗りました。その後、食料品店や喫茶店を開いたり、骨董品の販売を手がけたりしましたが、どれも失敗に終わっています。 昭和25年(1950年)には、新興宗教「ひがしくに教」を始めようとしましたが、許可されませんでした。しかし長寿を保ち、平成2年(1990年)に102歳で死去しました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
こんにちは!
東久邇宮稔彦王は、史上唯一の皇族の総理大臣だったんですね。 新興宗教「ひがしくに教」を始めようとしたそうですが、許可されなかったそうで。 102歳って、すごい、長生きされたんですね。 (2011年01月28日 11時33分00秒)
新しい日本を作ろうとしたのではないの?
晩年、日本は戦前と何にも変わってないと嘆いていましたが。 (2011年01月28日 19時41分26秒)
上のサイトは陸軍の記録だから、海軍の立場については陸軍から見た勝手な推測にしかすぎないが、71~73にかけての東条の気持ちについてはあっていると思います。
(2011年01月28日 19時53分08秒)
>国体護持、一億総懺悔(ざんげ) が日本再建の第一歩
でも達成されてない。 そう、今も昔も何も変わってない。国家の方針は定まってなく、政治家や官僚は場当たり的に動く迷走状態(他国の人に30年後の国家像を作りなさいといわれる始末)。メディアは国民を煽り、国民はそれに乗り、時には過激行動に出る。当時との違いは当時の国際社会が弱肉強食の帝国主義で物騒だったということ。そんな時代に大勢も考えず、各人各部各組織がバラバラに個として動き周り、白人至上主義で成り立つ舞台で不適切な発言などを繰り返した。外交摩擦や内政的な不安定さを高めて事態を複雑化させていった。そして最後は増幅しすぎ、公を忘れて破滅した。愛国心という考えを見誤り、個人化した愛国者が各方面で活動した。同じ国家に住んでいること、いざという時は一蓮托生となること、国家が消えれば自らの存在意義を失い、根無し草になることを忘れて良かれと思い動いた。国家を思い、公の視点に立って物事を見ていたのはごく少数。竹島/独島騒動、餃子問題などで騒いでいる姿は戦前とまったく同じ構図に見えます。どんなに正しいことを主張したとしても国家を危うい方向に持っていくのは駄目だと思います。 (2011年02月27日 01時22分47秒)
東久邇さんは賀川豊彦さんとも、交流があり、キリスト教にも深く関わった方でしたから、一億懺悔を理解していなかったのではないかなと。
当時は一億も日本の人口いたのかな?たぶん満州、朝鮮、台湾も含めた人口でしょうか? 晩年はクリスチャンになれなくて少し残念でしたが、賀川先生との交流が途絶えてなかったのが幸いでしたね。 (2019年10月23日 11時29分44秒) |