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月が替わって、2011年3月。ブログを書き始めて1年が経ちます。いつも、私のブログ 「
チューさんの今昔ばなし」 を見てくださって、ありがとうございます。
このブログでは、昭和の初めから、私が見たり、聞いたり、体験したり、したことを、ほぼ年代順に書いています。今は、
昭和21年(1946年)、私の専門学校在学中、
敗戦後の惨めな時代に入っています。
このブログは、私の想い出日記ですが、同時に一庶民が体験し見てきた、日本国の移り変わりでもあります。
歳とった者には、もはや力はありませんが、国の盛衰、世の中の移り変わりは、充分に見てきました。過去を振り返りながら、資料を調べながら、さらに続けて行きたいと願っています。
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このブログを、書き初めの 昭和3年 から 最終ページまで、ホームページ 用 に改訂し、内容も書き加えて、公開しています。 目次 から、どのページでも見られます。
題 名 は 「チューさんの今昔ばなしと野菜ワールド」
なお、エピローグ以後のことは、 ホームページ の方に書いていますので、そちらでご覧ください。
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さて、日本では、アメリカ・イギリスとの開戦前から、物価統制令を出し、生活物資の配給制度を作りました。それが、物資の不足から戦時中に崩れ始め、敗戦後は事実上崩壊しました。
警察も、敗戦後の民衆による反発と突き上げで、戦時中の強圧的な取締りから、違法も見て見ぬ振りをするようになりました。
GHQ(連合国軍総司令部)は、食糧メーデー の経験から、主要食糧(米・麦・イモ類・豆類)については、日本の警察と連携してきびしく取り締まりましたが、その他の物資に関しては、あまり言わなくなりました。
その結果、全国の都市の焼け跡や疎開跡を不法占拠して、バラック建てやテント張りの店がたくさんできました。これを人々は闇市と呼びました。店を開いていたのは、引き揚げ兵士や在日外国人、罹災者などが多かったと記憶しています。
東京・新橋の闇市
私の家の向かい側、建物疎開跡も闇市になりました。主要食糧は表向き売っていませんでしたが、ほかの物は、どこから仕入れてくるのか、いろんな品物が売られていました。安っぽい衣類、鍋やフライパンに茶碗、炭や薪、魚や野菜、乾物、調味料、飴(あめ)や煎餅(せんべい)など、など、など、・・・。
店を出している人たちは、荒っぽい言葉づかいでしたが、暴力沙汰はあまりありませんでした。
名古屋市の闇市
私の家では、父が店の部分を陶器屋に貸していましたが、裁判所の調停に提訴して、店を返還してもらいました。金融緊急措置令で預金を封鎖されたので、何か商売をして新円を手に入れないと、生活に困ってしまうのです。
とりあえずは、5年も前に仕入れて残っていた昆布などを売りました。まだ統制はありましたが、主要食糧以外は警察も黙認していました。
私の家から歩いて15分ほどのところに、警察も眼の届かない地域がありました。私は知り合いにつれてもらって、豆類をたくさん持っているという人を訪ね、豆を売ってくれと頼みました。相手は、人相は悪いが案外に人が良く、倉庫に入れてくれました。
大豆・小豆・うずら豆など、いろいろありました。大豆とうずら豆を1升(1.8リットル)ずつほど買い、これを持ち帰って、姉が煮豆にして売ってみたら、よく売れました。
豆類は米と同様にきびしい統制品でしたが、これを煮豆にすると、統制外商品になって、売っても差し支えなかったのです。
この豆の仕入れと、煮豆売りをしばらく続けました。そのうちに、豆持ちのおじさんとも仲良くなって、ほかの品物もいろいろ回してくれました。
こんな取引は、厳密に言うと違法かも知れませんが、この時代、こうでもしなければ、新円も手に入らず、生きてゆくことができませんでした。
このころ、水道は普通に出ていましたが、電気はわずかしか供給されませんでした。
晩になって、電灯のスイッチをひねっても、100ワットの電球なのに、フィラメントはわずかに光るだけ、今の5ワットの常夜灯より暗い状態でした。本も読めませんでした。
夕暮れになると町中が暗く、用心もよくないので、店を閉め、そんな暗い明かりの下で、乏しい夕食を食べました。闇市で売っている石油ランプを灯している家もありました。
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闇市は、昭和24年(1949年)まで続きました。この間に、物資は次第に出回るようになり、物資の統制も次々に撤廃されて、自由に商売ができるようになり、元の商店街が復活してきました。
昭和24年、GHQは全国の闇市を撤去させるよう、指令を出しました。闇市は、公有地、私有地の不法占拠でしたから。当時、占領軍の命令は絶対的なもので、反抗して居座ることはだれにもできませんでした。
闇市最後の日、昭和24年(1949年)の何月何日だったかは忘れましたが、向かい側の闇市は、すごい人出で賑わいました。なんでも売れました。そのころ、私の店では、鶏卵やお茶なども売っていましたが、その日はよく売れて、商品が無くなるほどでした。
店の前で、カボチャを食べたあとの、タネを乾かしておいていたら、そんなものまで売れました。
近ごろ、ネットショップで “闇市” という言葉か使われていますが、昔の闇市を知っている世代としては、あまり良い印象は持てませんね。もっと良い言葉があるでしょうに。