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昭和36年(1961年)。 日本は自由経済社会にあって、岩戸景気 に潤い、電化製品の普及や食料の潤沢な供給によって、勤労者の生活は次第に良くなり、便利になってきました。 しかし、この時期の世界は、アメリカを中心とする自由経済の西側諸国と、ソ連を中心とする共産主義諸国とに分かれ、いわゆる 東西冷戦構造 は深まるばかりでした。 その 東西冷戦 の最前線と言える場所が、日本と共に第二次世界大戦に敗北したドイツでした。ドイツは大戦末期に東西両面から本土に攻め込まれ、敗戦後、東の3/1ほどがソ連に占領され、西部と南部が西側諸国の占領地となりました。 ドイツの東西分断とベルリンの位置 こうして、ドイツは東西に分断されたまま、東部は ドイツ民主共和国(東ドイツ)、西側は ドイツ連邦共和国(西ドイツ) として別々の国となりました。 ところが、首都の ベルリン は、東ドイツ の中にありながら、ひとつの都市が東西両陣営に分割され、東ベルリン と 西ベルリン に分けられるという、大変複雑な状態になっていました。つまり、西ベルリン は 西ドイツ の飛び地になっていたのです。 ソ連が 西ベルリン を手中にしようとして、西ベルリン封鎖 を試みたことは、2011年4月27日のブログに書いたとおりです。 ブランデンブルグ門 始めのころ、東ベルリン と 西ベルリン との行き来はかなり自由で、ブランデンブルグ門 を通って通行でき、地下鉄も 東西ベルリン を結んで走っていました。 しかし、この交流で、東ドイツ の技術者や優秀な人材が、何万人も 西ベルリン を経由して 西ドイツ へ流れるようになって、情勢が変りました。 昭和36年(1961年)8月13日、東ドイツ政府 は 東西ベルリン の通行を禁止し、境界に壁の建設を始めました。いわゆる ベルリンの壁 です。ベルリンの壁 の建設は、ソ連の指示によって始まったといわれています。 ベルリンの壁の構築始まる 壁が完成するまで、まず有刺鉄線が張られ、鉄線や壁から一定距離は立ち入り禁止となり、その地域に立ち入るものは、東ドイツ警備兵によって逮捕または射殺されました。 ベルリンの壁 は 東西ベルリン の境だけでなく、西ベルリン の周囲全体に作られたそうです。この壁は、西ベルリン を包囲するというよりも、東ドイツ から 西ベルリン に入れなくするためのものだったと言えます。 それでも、決死の覚悟で、有刺鉄線や壁を乗り越えて、無事に 西ベルリン に入った人の数は5千人以上に達したと伝えられています。 1963年6月に 西ベルリン を訪問した ケネディ・アメリカ大統領 は、ベルリンの壁 を視察して、次のように語りました。 「すべての自由な人間は、どこに住んでいようと、ベルリン市民である」 西ベルリンを訪問した ケネディ・アメリカ大統領(1963年) ベルリンの壁 の総延長は155kmに達し、昭和64年(1989年)11月に破壊されるまで、28年間も 西ベルリン を取り囲み、ドイツ分断の象徴となっていました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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