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テーマ:今日見た舞台(965)
カテゴリ:映画・演劇
コンドルズ(CONDORS)の京都での公演に金曜夜行って来ました。
(「2008年ツタンカーメン」@京都 三条 アートコンプレックス1928) サラリーマンNEOがきっかけで、あと、職場の友人が熱心なファンだったのがきっかけで、コンドルズのライブにこの夏、試しに行って見たのでした。 もともと演劇や落語(大分違いますが)を中心に、バレエやダンスは少々(ナマはホンマに少々)と、舞台でのパフォーマンスはワリと好きなほうなのですすが、そのつながりで、フィギュアスケートに限らず、スポーツを眺めたりすることもあり(「勝ち負け」よりも・・・)、 また、 自分がそのまま「できる」わけではないのですが、 「身体表現、身体を意識したうえでそれにより表現する」 ということには、 楽器や歌をすることとも密接につながっていますし、舞台や、また欧米の映画の一部や舞台などで、それらが明確にトレーニングされて活かされているのを(即席の一部の日本のTVドラマと違って)みたりするのはとてもおもしろく、また「ひとの身体の可能性」みたいなものを感じられて、分不相応ながら、少しでもやってみたい、、と思ったりするほどです。 そもそも、暮らしの中に「踊り」というものが失われてから久しいですし。本当は普段の会話の中でも、身体表現というものはあってしかるべきなんですけども。 そんなところへもってきての「コンドルズ」なのでした。 「サラリーマン体操」での彼らは、内容はパロディ、それも本質に触れつつも本質に深く迫り過ぎないやや「通俗的な理解」あたりのところで、軽く笑いに持っていくセンスと、それを「さりげなく」または逆にあえて「とてもムリがアリアリ」な身体表現でもって、流れるように矢継ぎ早やに表現していくのが面白く楽しみにしています。(音楽も雄弁で「爽やかにしてアグレッシブ」)。 ただ、実際の舞台はどんなものなのか? 正直、「サラリーマン体操」と「こんどうさんちのたいそう」だけでは想像もつきません。 で、百聞は一見に如かず、、ということで、夏、そこそこ大きなホールでの公演に行ってきたのでした。 場所は、あの「夏の夜の夢」を「子供のためのシェイクスピアカンパニー」が上演したIMPホール。 すでに、コンドルズ、公演を重ね、熱心な固定ファンも集め、「応用」ないし「脱構築」の世界に遊ぶ余裕もあったようで、夏の公演は「沈黙の夏」というテーマを設定して、ほとんどセリフや言葉を入れないパフォーマンスの連続でした(さまざまなパフォーマンスの連続、、、というのがコンドルズの舞台の基本ではあるようです。)。 結果、「洗練されていない、マイムを基本にした、ややシュールネタも加えた、創作っぽい舞台の、ウマいもの」みたいな印象も正直ありました。 距離があるため、そもそも、身体表現として「スケール感」は、僕とはつながって実感できず「あっちとこっち」として受け取られましたし。 もちろん、すでに、彼らの舞台を見て親しんでいる人ならば、こうしたちょっとしたギャップ・距離感は、充分に、イメージで補えるものなのでしょうが、初めてで、またいろんなほかのジャンルの舞台を見てきた僕からするとそれらとの比較になるので、この「距離感のある身体表現を核とした舞台」は「共感」できるまでにはいたりませんでした。 (逆に、これまで見てきた舞台から「逆算」して、この距離感がなければ、、、と思いもしましたが。) といっても、すでに安定期に来ているパフォーマンスの集団からすれば、 そもそも、すでに「定番」ではない舞台、都度都度、試み・実験・挑戦を交えていくのは当然のこと。 いつも、落語が枝雀の「子ほめ」、歌舞伎が「忠臣蔵」で、クラシックが「新世界より」で、ジャズが「ワルツフォーデビイ」で、映画が「ローマの休日」、シェイクスピアが「ハムレット」、演劇はニール・サイモン、というワケには行かないのはむしろ当然です。 夏見た折には、多彩で「ごった煮」ながら、とくに身体表現を核にしている、という点からしても、小さい小屋で見るのが一番だろうなあ、、と思ったのでした。これは「落語」ともかなり共通します。座敷などで見るのと、ホールやTVとではまったく違うもんといってもいいくらいに印象も「来かた」も違います。クラシックではオーケストラの迫力もさることながら、「弦楽四重奏」のバリバリに巧い演奏(アルバン・ベルク四重奏団」を聴いたときは鳥肌でした。音量だけならCDを大きくかけたらそんなに変わらないはずなのに、目の前で4人が、今この瞬間瞬間にものすごい音楽を産み出していく、独特の迫力にビビったのでした。 あ、身体のスケールとはちょっと違いますね。 身体のスケールではバレエでもそうでしょうね(バレエは残念ながら遠くからした見たことがないですが)。ちなみにスポーツではサッカーがそうでした。熱心なファンではないですが。 というわけで、京都の小さいところでライブをやる、、というので、楽しみにしてたのですが、このところ余裕が無くて、気づいたらSOLDOUTでした、、と思ったら、平日夜の公演だけ、追加発券があったので、思い切ってとることにしました。 場所は、京都三条のもともと毎日新聞社があった建物。以前は現役だったのですが、もう何年も前に、「講堂」をパフォーマンスをする小屋にして、企画する人たちが意欲的に活動を続けておられます。 ちなみに、「小屋」だけではなんにもならなくて(無いとだめですが)、企画し準備し宣伝しチケットを売って客を集める、、まですることが、不可欠に重要であり、ここのとりくみは敬服に値します。コンドルズに限れば今となってはチケットを売ることはカンタンでしょうが。それ以外も含めて、、、(大阪はこの機能がどのジャンルも衰退している。) やはり、小さいところで間近に見ると、印象はまったく異なりました。 一応「ストレートプレイ(?)」の「寸劇:ケンタとドラエンタのエジプト旅行」は、まあ、舞台全体の中での、インターミッション的に、一昔前の「小劇場ブーム」のころの「学生劇団」のノリのパロディかな、、、と思いながら見てたので、おくとして、、、 身体を完全にコントロールしてる!!!、、という印象がどんな「見せ方」の場面でも感じ取れます。 それこそあえて「ヘタウマ」みたいな洗練しすぎない「人間パズル」的なパフォーマンス(人間で、棒つかみ みたいなことをするとか)から、 重力を感じさせないほどのパフォーマンス、、、 また、間近で見ると指先まで「踊っている」生命力にあふれたパワーのつたわって来る集団ダンスまで、また多分、演劇での身体表現の部分のみを使ったコントっぽいパフォーマンス(結構笑えます。ネタが一部夏とダブってましたが)まで、文字通り、「多彩な側面」を堪能することができました。 (「空耳アワー」すら、リアル身体化!!) 洗練度が異なるパフォーマンスをみることで、一種の「メイキング」的な面白さも感じることができましたし、 二人一組になって、身体動作を重ねて行くパフォーマンスでは、想像するには「動作の法則」か「キーとなる動作」かなにかを決めていて、あとは、舞台上で、偶発性と法則性を楽しみつつ、「形」にしていってるのかな、、、と思ったりでした。 (コチラから見ていると、動作のパーツは数種類なのに、それらが「ランダム」に繰り返したり、繰り返さなかったりして、それが何とは無しに「ストーリーっぽい方向性」がたちのぼってくるみたいな感じ) 夏に見た折には、かえって、大勢で狭い舞台で苦労してゴチャゴチャしながら踊っている(一人一人の踊りの印象があいまい)と思った、クライマックスでの「全員のダンス」でも、 もっと狭い、京都の舞台では、かえって、一人一人の踊りが、「立って」見え、その上で、全体でのパワーのようなものも湧き出してきて、 「踊る楽しさ!!!!!!よろこびいいいい!!!」が バシバシ、伝わってきました。もちろん、楽しさ・よろこびといっても、アマチュアのそれではなく、プロとしての、、、でもアマチュアと線を引く意味でのプロではない、、そんな「楽しさ」であり「よろこび」でした。 繰り返しになりますが、本当に、指先からまた、動作のはじめから最後までが「ダンス」なのでした。 そして、いわゆる「群舞」のパフォーマンスではなく、基本はやはり「ひとりひとり」の振り付け・ダンスにある、パフォーマンスなんだということも、よくわかりました。 ネタ的には、むしろ僕よりまだ上の世代のネタもある感じです。 また、野田秀樹ほどではないけど、引用ネタもそこそこ。。。 世代でいえば、水森亜土なんてファンの中心層を占めている若い女性の方たちは知らないんじゃないか、、とか、バブルネタもそうですし、また、「小劇場風。。。」もどうなんやろう、、、とか思いますが、それもふくめて「やるひとがやりたいこと」をヤル、、ということを基本にしてるようですね。 固定ファンのついたパフォーマンス全般にいえるのかもしれませんが、 反応がやや過剰というか、 ほんのくすぐり程度のしぐさや、もしかしたら笑うようなところではないところまで、「ひとつひとつ全部しっかり笑う!!」みたいな感じが 一部にあったような気がしないでもなく、それはチョット落ち着かなさを感じたのは事実です。 (寸劇でも、主人公が死ぬというハナシが出たとたんに笑いが一部で起こったり、、、(もしかしたら、日本の笑いもティム・バートンの世界にまで行きつつあるのか、、、と思ったり)) これは、どのジャンルでも、その「入り込み方」の違いで、反応や感じ方が異なる、、ということなのかもしれません。 また「笑い」を通じて「演者」とのコミュニケーションを図りたい、、ということもあるのかもしれません。 こんなように、 なかなか、ほかに、類が無い種類の「安定してしまわない」でも高度なパフォーマンスであり、「また、次もみてみたい」と思わせてくれる機会でした。といって「世界最高」を目指すでもない、「バナキュラーさ」加減を保持しているところが、かえって、外国からも受け入れられ、評価される大きな持ち味なのかもしれません。 また、僕としては、使われる音楽と身体表現の絶妙な相乗効果も、とても楽しく観せて(聴かせて)いただきました!! (人形(?!)と近藤良平氏の非常に趣味のよいかつ素朴なアコーディオン(手風琴?)の競演も含めて)。 PS コンドルズそのもの、、というより、 「送り手」と「受け手」の関係、、、ということで、 まったくほかのことも含めて、連想したことなのですが、、、、 演劇ブームのころ、あえて難解で引用に満ちた上演をしまくっていた野田秀樹が当時のファンについてやや否定的なことを言ってたのを思い出しましたが、コンドルズは野田秀樹と比べようもないほど基本姿勢がWELLCOME!!ですからね。というか、排他的で「高尚」な現代芸術の世界のみにとどまることが面白くなくて、いろんな断面を露出させて見せる、、というのがもともと趣旨ですしね。 ただ、コレも少しだけ皮肉に思うのですが、そんな「ありのまま」を演じようと研鑽し、それを愛するファンも集まっているのに、そしてその舞台で目の当たりにする「ありのまま」をこそ価値を感じ取ればよいのでしょうが、意外と、 「実はあのひと、こんなことやってるけど、芸大の教授」とか「実は現代舞踊でも世界級」とか、「絵画の世界では第一人者」とか、、、 紹介文には書かれてることがけっこうあって、 「ブランド志向を排除する資格」としてのブランド、、を、受け手側が案外もとめてしまってるところ、、、は、 これまた、どのジャンルに限らずですが("実は”東大卒、とか京大卒とか、、)、あるような気がします。 これも、「本宮ひろ志作品("実は"コンツェルンの御曹司、、とか)」や「水戸黄門」以来の、本能なんですね。。。。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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