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2008.11.24
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カテゴリ:音楽
昨日のコンサート、チッコリーニ以来久々の、、というまでもなく、
もともと、それほどたくさん「ピアノ・リサイタル」に行ったことがないのですが、
まあ、とにかく、深く印象に残るコンサートでした。

ただ、チッコリーニのコンサートとは対照的で、
チッコリーニの場合は、アンコールは別とすれば、プログラムは、リストの曲集1つのみ、
というもの、
こちらは、ショパンの曲を順番に、たくさん、、、長時間に、、でした。

3日12公演のうちの、最後の4公演を聞かせてもらえたことになりました。
ピアノ・リサイタルには不慣れ、といいつつも、
これだけタテ続けに聴くと(ショパンばっかり)
「1つ1つの演奏や音をいつくしむ」、、、という姿勢が、やや、薄まるような気もしますが、
それでも、「ショパン・マラソン・シャワー」でした。

ピアノのナマでは、僕なりに、「こうあってほしい」というのがあって、
それは、
全てがバランスよく響いて、かつ、ホールの空気全体が、「フォルテ」もさることながら「ピアニッシモ」を、密やかで静かにしかし弱々しくなく、、(←イタリア語で書けば、そのまま「表情記号」になりそう)というようなものです。

聴く耳がそのときそのときで違いますから、「絶対評価」ではなく、ただ僕の「体験」としてのなのですが、
それらの体験をしたのは、ずっと前に、ザ・シンフォニー・ホールで聴いた「ディーナ・ヨッフェ」のショパンのバラード4曲、
そして、また、「ピアノというものの新たな(といっても100年以上前ですが)特性と可能性」をもまざまざとみせつけてくれた先のチッコリーニのコンサート(http://plaza.rakuten.co.jp/classical/diary/200803230000/)でした。

オケでの、ありえないようなピアニシモでいえば、昨年聴いた、パーヴォ・ヤルヴィ=ドイツ・カンマーフィルの「悲しいワルツ」、そして、チェリビダッケ=ミュンヘンフィルのシューマンの4番(こちらはしかし「完全なフォルティッシモ」の印象がさらに強い)。

今回は、6人のピアニストということで、専門的なことは全くわかりませんが、それぞれに音の出し方・響きが違うような気がします。
1曲1曲を論評するほどには、曲そのもののも比較して知ってるわけではないのですが、
ただ、6人とも、「難しい曲を上手に」みたいな「習い事レベル」は当然超越した、「音楽」のレベルで、自在に響きを繰り出していました。

フォルテもそうですが、特に、ピアニッシモやそこからのデクレッシェンドが息を呑むほど美しかったです。
格別にこの印象が強かったのは「子守唄」ですが、バラードの4番でも、幻想曲でも、、
これは、「この場」でのナマに触れる以外、絶対に体験できない体験でした。

デクレッシェンドといえば、たとえば管楽器であれば、息とアンブシュアを支えながら、息を調節して減らして行き、、、、ということですし、「声」もまあそういうことなんでしょうが、
ピアノの場合は(楽器の「ピアノ」)、叩いた複数の音をきれいに減衰させる、、ということで、叩いた瞬間に「あと」が決まる、、のですから、これはものすごい、コントロールだと思います。
なにせ、「普段自分が練習している楽器」とはまず絶対に違う楽器・違うコンディションなわけで、いろいろ注文はつけようもあるでしょうが、どのみち「完璧に思い通りのコンディション」にはなるはずもないので(ホールの大きさも残響もどうせ違うし)、ありとあらゆる「耳と筋肉と脳のフィードバック」を要求されるのだろうと思います。
昨日などは、6人の強烈な力をもった人たちが続けざまに引き続けるのですから、「調整しなおせる」のは、イスくらいのもの、、、
「言い訳」はしようと思えばいくらでもできるでしょうが(人が弾いたあとだから、、とか、調律が自分向きじゃない、、とか)、各人の響きの「違い」やら、また、それぞれのコントロールされまくったピアノッシモからフォルティッシモを聴くと、そうした次元やストレスを、自らの力で「opportunity(←兵庫県知事風に言うと"チャンス"?)」に引き寄せているのだと感じました。
限界までのフォルティッシモやピアニッシモ、デクレッシェンドを表現する、ということは、それだけ、「リスク」にも挑戦している、、ということだと思いますから。



このプログラム、僕が聴いたのは、先にも書いたとおり、ショパンがマヨルカ島に渡ってから死ぬまで、、
大好きなバラードの3番、4番、それにソナタの3番も入っていて大層なごちそうです。
また、他の曲もかなりのものは、「何度も聴いたことはあるが、曲名と対応しない」というものも多く、大体において、創作全体に「捨て石」がほとんど無いことも驚嘆すべきことと思います。


ショパンといえば、古いリパッティの録音を比較的よく聴いていて、最も多く聴く機会がある録音、、でもあるので(最近そうでもないですが、昔FMで「ハッ!」と思って感動して、後にまとめて最初に買ったのがリパッティだったので)、
ついつい、あの特定の演奏(音質込み)がアタマに浮かびそうになるのですが、
昨日の体験は、特に、それが「比較」とかにはならず、
変な言い方ですが、「今、ここで、生まれている演奏」として、「リパッティがそのときそこでそうしたように」、、今聴いている、、と思える、、というような不思議な感覚でした。
これは、
ショパンが若い晩年に向かって、死とも向き合いながら、創作と演奏を続けていた軌跡をたqどる、、、ことと、同じく死を覚悟したリパッティの演奏の記憶とが交差する面があったこともあるのかもしれませんし、
6人のピアニストの演奏が、「曲」を通じて、ショパン本人(の音楽)と、そして、そのショパンの音楽をずっと再現してきた、これまでの過去からの多くの奏者達と、また、聴き手達と、、
その延長の上に、矛盾なく、高い水準で、次へ、、と進んでいくものだったからかもしれません。(←すみません、めっちゃこのあたり、論理的でなく、「印象」でモノを言っています。)


とはいえ、作品番号もついていないような珍しいものも演奏され、バッハをまずはスケッチしたかのような習作っぽいものや、一瞬で終わるもの、また、子供の練習曲用?というようなものまで珍しいものも突然はさまるのが、またこのコンサートの特徴でもあります。
きっと、ピアニスト自身、「今回、はじめて弾いた!」というものもあっただろうと思います。

しかし、素人の耳ではありますが、「とりあえず、音になおしてみました、、私もあんまり知らん曲やから、、」みたいな演奏はなく、すべてが、「私が、皆さんにお届けする、これがこの音楽です」というものになっていましたので、「珍曲コーナー」的な雰囲気は演奏からは感じられません。


また、詳しい人には当然のことなのかもしれませんが、
いわゆる「子犬のワルツ」を含めた3つワルツが、気力・体力ともに衰えて、明らかに「死」を覚悟していた最晩年のものだとは知って、ショックを受けました。
(その頃に書かれた「ギャロップ」という曲が、メッチャ、「子供のための」風です。ドビュッシーあたりがパロディとして書きそうな、、、)
時系列で聴くと、バラードと、他の曲の位置関係にせよ、だいたいた「**集」でまとめられがちなポロネーズやワルツやノクターンの位置づけもわかって面白いです。
元々、曲名をidentifyできる状態の人ならも、さらにさらに面白さが得られたことでしょう。
僕より少し若くして死んだ、若きプロフェッショナルの思いと努力と無念、そして、「可能性」が感じられる気もしたのでした。
「生き方」として。 (聴いてる間、そんなに「物語」で感動してたわけでもなく、聴いてる間は音楽そのもの、、を楽しんでたのですが)


ほかも、そう思って聴くから、、というのも正直あると思いますが、「全盛期」から、「なんとか力を振り絞って、、」という時期のものまで、楽曲の規模そのものも含めて、本当に「音楽日記」な感じもしました。


あと、何を言ってんだか、、、かもしれませんが、
皆さんの響きが美しくシャープなので、
ショパンが、和音を自在に使い尽くして、とくに「不協和音」がものすごく効果的に使われていることも、強く実感しました。
必然性のある「場面」で、色々な「色」の不協和音を自在に使い尽くしている、、、
リストのような「点描手法」ではなく、基本、同時に鳴らす和音を主としつつ、、、。

また、さらに主観ですが、
ピアノの、高音部と低音部、そして、中音域では、かなり「音質」が変わりますが、
その「音質」の変化も、充分に使いこなしていて、
あたかも、
いくつかの楽器からなる1つの楽器 のように、ピアノを使っているかのような気がしました。
弾いている人からすれば、「!?ん、左手と右手のことね!?」ってことなのかもしれませんが、両手で高音、両手で低音に移るところも含め、
時に、同時に鳴り、あるときは片方の「伴奏」に徹するものの、あるときは、同時に「2重唱」にもなり、またあるときは、交唱のように歌い交わしもし、また、あるときは、「場面転換」で、次の「幕」にしてしまう、、
そんな表現の幅をあますことなく、ピアノというものによって伝える、、、という意味で、超言い古された言い方ですが「ピアノの詩人」なんでしょう。ただしこの詩人、物静かに叙情的なことを朗読してるだけではありません。詩人は時に10人くらいが集団演舞したりもする、、そんなパフォーマーであり、コミュニケーターである、、と思いました。





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Last updated  2008.11.24 17:56:12
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