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テーマ:今日聴いた音楽(75608)
カテゴリ:音楽
ベルリンフィルは、30年前からずっと聴きたいオケで、
10年以上前に一度は、アバドとの大阪公演のチケットを実際に買ったのに(たしかバルコニー席かどこかでしたが)、身内の不幸があって、行けなかった、、、 で、それいらい、大阪には来ていない、、、のでした。 たしかに余りにも高価、、、でしたが、 大阪(まあ行ったのは兵庫でしたが)に来ること自身が稀有なうえ、 土日にコンサートをしてくれる、、ということも、「千載一遇」ですし、 また、100年以上前からの曲を演奏する「クラシック」とはいえ、 「今」は、今しかない、、、ということを、 過去の演奏家で、実際に聴けた人、、、、 また、聴き逃した人、、、 演劇や落語でもおんなじですが、 そうした、「ナマ」のまさに「一期一会」を大切にしよう、、、とおもったのでした。 で、会場です、、 先に書いたとおり、この西宮のホールとは僕は相性がイマイチで、 ザ・シンフォニーホールはもちろんのこと、フェスティバルホール(取り壊し決定、、、)と比べても、なにか、まとまりのない響きのような印象はぬぐえません。 季節外れの「豪華志向」のデザインではあるのですが、、、 いわゆる「側方反射」も、 両側の壁面のバルコニー席が3階まで埋まっていることで、 豪華な「セミシューボックス」っぽいデザイン(=側方反射が第一次反射として聴こえるのが利点)が活かされてないせいかな、、とも少し思います。 いずみホールのように空気の量が足りない、、とか、平土間席が上がっている、、ということはないので、 オケが混濁することはないですが。 で、今日のベルリン・フィル、、、1曲目もブラームスの1番では、そうしたホールの間尺を、やや探っていて、ブラームスの2番で、ようやく、大体のスケールをつかんだ、、というような印象は正直ありました。 ただ、ベルリンの、フィルハーモニザールこそ、天井も高く、響きはかなり拡散しそうなので、このホールのスケール感さえつかんだら、きっと、フィットした演奏をしてくれたであろうことがすこし残念でした。 とはいえ、ものすごい演奏でした。 オーケストラ、、というものの「意味」が変わってしまうような、、、 演奏全体の設計の特徴は、ラトルらしい、メリハリの効いたもの。 ブラームスという作曲家は、ちょっと聴きには、メロディアス&ドラマティックな古典的構成をもったロマン派、、、というところなのですが、 ヘミオラ(楽譜上は4拍子だが、3拍子に聴こえるとか)や、シンコペーション(拍のオモテのように聴こえるが実はウラ)とか、また、2拍子系と3拍子系が同時に別のパートで鳴ったり、、とか、いろいろ「20世紀」を予感させることをいろいろやっているのですが、そうした「仕掛け」もとてもよく見えてくる解釈でした。 それとあわせて、肉体的快感!! フレーズの1点にエネルギーを集中させて、放出する、、、というような、独特のスピード感と「ため」を、「オケ全体」で行ない、それが、また本当にビシっと揃って、集中・放出されるのは、「ベルリンフィルらしい」といってよいでしょう。といっても、アバド以降の、、ですが。 ナマでは初めてですから、「らしい」なんていう資格ないんですが。。。 それにしても、 「音色」というもの(ピッチやフレーズ感や音のスピード感に「音の形」も含んだ「音色」)が、 これほどまでに、一体化するときはするのか???? と本当に驚きました。 もちろん、各々が「対立的」にソロが浮いたりするときなどは、 逆に、音に「名刺」がはりつけてあるかのように、 オーボエでしたら、アルブレヒト・マイヤーさんそのものの音、 クラリネットでしたら、ブランドホーファさんそのものの音、 フルートだったら、パユさんの音、、、 と、ハッキリとしているのに、 (またしかし、それぞれが、その場面場面で、いろんな音量・音色・艶を選んで繰り出してくるわけですが) 一体となるべきときには、 とくに頻出する、オーボエとフルートでも、「ひとつの楽器」のようでしたし、 木管やホルンそれに弦、、、などでも、ピッタリとひとつの音なのです。 シュテファン・ドールのホルンソロと安永徹のヴァイオリンソロも、完璧にシンクロした音・音楽でした。あまりにも完璧なので、ヴァイオリンソロの「ヴィブラート」がやや「揺れ」に感じたほど、、、 全ての金管群も、いざとなると、完全にひとつの響きで聴こえますし、 必要とあらば、随時、オモテに出たり、また、溶け込んだり、、、、 と、全ての瞬間が、 「偶発的」であったり、「楽器の事情」であったりすることなく、 多くの選択肢のなかから選択された音として、 出されてくるのです。 「融通無碍」という言葉もおもいうかびました。 どれも、、、 小さい音も、大きい音も、、 「限界」や「制約」などの「事情」を感じさせない、、、 必要とあらば、どの音量でも再現できますよ、、、 そのような「余裕」に充ちた「選択」であることが、本当に実感されます、、、 また、あえていうまでもないですが、 また、各楽器が美しい、、、こと。。。。 今日は、オーボエが「第二の指揮者」というくらいの活躍でした。 マイヤーは10年近く前、奈良の山奥の自治体が「やまなみ音楽祭」という室内楽主体のコンサートをやったときに来ていたのを間近でナマで聴いて以来ですが(たぶんBPOに入ってまもなく、、のころと思います)、 当然、このスーパーなオケの中心で吹く音・姿はまた別人です(10年たってますしね)。 くわしいことはわかりませんが、 たとえば、カラヤン時代のコッホなどとくらべると、とても繊細で細身ともいえるデリケートな音色、、、 オーボエでもこうした音色の人は、ともすれば、ややピッチがズリ上がって不安定になったりするものなのですが(奏法でしょうか、、、、?)、 マイヤーの場合はそうしたことはいっさいありません。 (正確に言うと、ブラームスの1番の冒頭だけは、一瞬「そっち」に行きかけた瞬間がありました。リードがやや思ったように冒頭のときはならなかったようです。。。。が、その後、完全に「修正・調整」してきました。すぐ、ソロですからね、、、ブラ1、、、この「復元力」がまたスゴい、、です。) パユのフルートも当然初めてナマで聴きますが、 輝かしく出るときは本当に光を放つかごとく、、それも、硬いのから柔らかいのまで、、 録音で聴いているよりも、はるかに、「輝度」も「照度」も高いです。 でも、よくある「巧そうな、縮緬ビブラート」はありません。 むしろ、透明でストレート、、、 音質は大分違いますが、フレージングのきれいさ透明さや「清潔さ」は、ニコレを少し思い出しました。 ブランドホーファも、倍音の多い、溶け込みやすく、またソリスティックな音色です。 こちらはもしかしたら、若いころのライスターとかもこんなんやったんかな、、という系列の音です。 ただし「重たさ」は無い、「アバド時代以降の音」ではあります。本当にきれい。安心して「身を任せられる」音です。 弦がメチャ巧い、、のはもういうまでもないことですが、 それにしても巧い、、、 カラヤン時代の「巧い」とは大分ちがっていて(あくまでも録音ですが、、、)、 カラヤン時代は、「筆圧」の高い、分厚い「鳴り」を特徴として、 その「分厚い音」なのに、「運動性」(リズム、細かいフレージング、テンポの伸び縮み、表情付け、、、)を余裕で発揮しまくる、、、ところから来る「雄弁さ」が特徴のようにおもいますが、 今日のベルリンフィルは、その「分厚さ」「薄さ」そのものを自在に変化させて、それそのものも、音楽の描写の一部にしてしまっています。 いざとなったら、管楽器のトゥッティを多い尽くすほどのフォルティッシモも余裕で出せる、、といった感じがあります。 また、「対抗配置」やったのですが、 上手端、ひな壇の上のコントラバスも、真正面のチェロも、 第一ヴァイオリンの奥のヴィオラも、 内声が極めて、よくはっきりと聴こえます。 しかも、分離しているのではなく、、、 また、ラトルらしい、「テンポを追い込むことで、フレーズを分けるとともに、エスクタシーを与える」といったようなところで、急激なテンポアップでも、 全ての弦楽器が(1本残らず)、同じテンポ感で、急激に緩急を、全ての音符・休符を音にしつくして、飛ばしたりあいまいになることもなく、完全に弾いてしまいます。 音量の幅もしかり、、、 繰り返しになりますが、 ありとあらゆる「言い訳」や「事情」がまったく感じさせないのです。 ですから、指揮者は、このオケとは喜びに充ちた共同作業、、、となるでしょうが、 選択肢が無限にあり、どれでもが「可能」なオケに対して、 自分が、最適と思う「解」をオケに伝えて、形にしていく、、、ということは、 大変な能力が必要なことで、特別なことやと、つくづく思いました。 能力がイマイチのオケなら、「コノ箇所は、ホルンが小さくならないから、、」とかまあ小さくしても「小さく吹くのは難しいから」とか、そういったことの「制約」の中からの選択を行うのが、指揮者ですが、 このオケの場合、「やろうと思えばなんでもできる」相手に対して、共通の具体的なイメージを伝え納得させ音にする、、という「仕事」はなんと、能力が必要なことか、、改めて想像して思いました。。。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2008.12.03 01:30:28
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