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《櫻井ジャーナル》

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2015.08.30
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 今から92年前の9月1日、相模湾を震源とする巨大地震が関東地方を襲った。死者/行方不明者は10万5000名以上、損害総額は55億から100億円に達したという。復興に必要な資金を調達するため、日本政府は外債の発行を決断するのだが、それを引き受けられる相手はJPモルガンしかなかった。

 1920年の対中国借款交渉を通じ、JPモルガンと深く結びついていたのが井上準之助。同銀行を指揮していたトーマス・ラモントは3億円の外債発行を引き受け、1924年2月には調印に漕ぎ着けている。東京市や横浜市の起債もJPモルガンに依存した。

 その後、JPモルガンは電力を中心に日本へ多額の融資を行い、震災から1931年までの間に融資額は累計10億円を超えている。必然的にラモントが率いるJPモルガンの日本に対する影響力は絶大なものになった。

 井上はウォール街と同じように「適者生存」を主張する人物で、最近の用語を使うならば、新自由主義的な政策を推進、庶民の世界では景気は悪化して失業者が急増し、農村では娘が売られるなど耐え難い「痛み」をもたらすことになった。こうした社会的弱者を切り捨てる政策が「テロ」を誘発したわけだ。

 この当時、JPモルガンは政治の世界でもリーダー格で、イギリスの王立国際問題研究所(RIIA)のアメリカ支部とも言われる外交問題評議会(CFR)を管理していた。1930年代以降、CFRはロックフェラー系と見られるようになるが、その一因は1933年から34年にかけてJPモルガンを中心とする勢力がフランクリン・ルーズベルト大統領の排除を目的としたクーデターを計画、スメドリー・バトラー少将の議会での証言で発覚したことにあるだろう。

 JPモルガンを動かしていたのはラモントだが、そのラモントを使っていたのはジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア。その結婚相手、ジェーン・ノートン・グルーはボストンの銀行家だったヘンリー・スタージス・グルーの娘。ジェーンのいとこにあたるジョセフ・グルーは1932年、つまりルーズベルトが大統領選で勝利し、井上準之助が暗殺された年に駐日大使として日本へ来ている。ジョセフの妻、アリスは大正(嘉仁)天皇が結婚した貞明皇后(九条節子)と華族女学校(女子学習院)の時代に親しくなっている。

 関東大震災の直後、「社会主義者や朝鮮人の放火が多い」といった話がまことしやかに伝えられ、警察や軍隊の通信網で全国に広がった。根拠のない荒唐無稽な話だったのだが、この流言蜚語を信じた人々は各地で自警団を組織、数千人とも言われる朝鮮人や中国人が虐殺されたほか、東京の亀戸では警察署に連行された労働運動の活動家が殺されている。アナキストの大杉栄が妻の伊藤野枝や甥でまだ7歳だった橘宗一とともに殺害されたのもこの時だ。

 こうした残虐なことが行われた背後では警察など支配システムが動いていたが、「一般市民」の一部が実行したことも忘れてはならない。閉鎖空間の中で行われたわけでないため目撃者は多く、腹を切り裂いたり、焼き殺したとする証言もあるのだが、証言者の大半は鬼籍に入っている。そこで「虐殺はなかった」という妄想を口にする人も出て来たようだ。

 地震が起こる前年、政府は「過激社会運動取締法」で権力への盲従を拒否する人びとの取り締まりを強化しようとしていた。その計画が地震で実行されたとも言えるだろう。地震の2年後には「治安維持法」が制定され、1928年3月15日には日本共産党関係者らが大量に検挙された。大半の人は勾引状など正式手続きを経ずに逮捕されている。この後、特高警察は組織を拡大、思想検察制度が発足した。

 日本で大規模なコミュニスト弾圧が行われた前年、1927年の8月にアメリカではニコラ・サッコとバルトロメオ・バンゼッティが処刑されている。ふたりは1919年にボストン近郊で起こった現金輸送車襲撃未遂事件で懲役12ないし15年の刑が言い渡され、20年4月にマサチューセッツ州サウスブレーントリー駅近くで起こった強盗殺人事件で死刑が言い渡された。

 ふたりは冤罪だった可能性がきわめて高いが、その冤罪を生み出した原因はアメリカにおける当時の政治経済状況にある。第1次世界大戦の後、アメリカでは街に失業者があふれ、ストライキやデモが続発していたのだ。

 そうした中、アナキストのふたりが逮捕され、検察はふたりの思想を強調した。いずれの事件もふたりを有罪とするような証拠、証言はなく、1925年には別の事件で収監されていたセレスチーノ・マデイロスという男が「真犯人は自分たちだ」とする書面を提出しているが、裁判官は無視している。「アナーキストの犯罪」を処罰することが重要だった。

 この当時、アメリカと日本は共鳴し合っているように見えるが、1933年に状況が大きく変わる。アメリカ大統領がJPモルガンと対立していたフランクリン・ルーズベルトに交代、33年から34年にかけていのクーデター計画も失敗してしまい、日本はそのルーズベルト政権と向き合わねばならなくなったのだ。そうした状況は1945年4月にルーズベルトが急死するまで続く。

 第2次世界大戦で敗北した日本に厳しく対処すべきだと考える人は連合国内に少なくなかった。そこでアメリカ政府は急いで「天皇制」を維持する憲法を制定したのだろうと本ブログでは書いてきた。そうした中、日本をウォール街の支配下へおくためのプロジェクトが始まる。いわゆる「右旋回」だが、そのプロジェクトを実行するために編成されたのがジャパン・ロビーで、その中心にはジョセフ・グルーがいた。「戦後レジーム」と「戦前レジーム」の構造は基本的に同じだと言える。その象徴的な存在がグルーだ。






最終更新日  2015.08.31 15:50:43



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