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《櫻井ジャーナル》

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2018.11.12
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 1918年、つまり今から100年前の11月11日に第1次世界大戦は休戦になった。その2日前にドイツ皇帝ウィルヘルム2世は退位している。この戦争ではドイツを中心とする同盟国とフランス、イギリス、ロシアを中心とする連合国が戦った。日本は連合国側についている。

 途中、1917年11月にロシアではボルシェビキが資本家主導で戦争を継続する方針だった臨時革命政府を倒し(十月革命)、ボルシェビキを率いていたウラジミル・I・レーニンは即時停戦を指示している。臨時革命政府にはメンシェビキや社会革命党(エス・エル)が参加していた。ロマノフ朝を支えていたのは地主貴族と産業資本家で、そのうち戦争をカネ儲けのチャンスと考える資本家がロシアを乗っ取ったようにも見える。

 臨時革命政府で法務大臣に就任したのはエス・エルのアレクサンドル・ケレンスキーだが、この人物を通じてイギリス政府やシオニストは新政府に影響を及ぼしていたと見られている。ケレンスキーは後に首相となる。(Alan Hart, “Zionism Volume One”, World Focus Publishing, 2005)

 この大戦でドイツは東のロシア、西のフランス、ふたつの戦線を抱えていた。そこで目をつけたのが即時停戦を主張していたボルシェビキ。この党の幹部は1917年3月にロマノフ朝が倒された際(二月革命)、国外に亡命しているか、刑務所に入れられていた。そこでドイツ政府はボルシェビキの幹部を「封印列車」でロシアへ運ぶ。レーニンは1917年4月にスイスから帰国した。

 十月革命で軍事的に重要な役割を演じるレフ・トロツキーが二月革命当時にいたのはニューヨーク。そのころはメンシェビキのメンバーだった。トロツキーは1917年3月にニューヨークを離れ、途中で彼の乗った船がイギリス海軍に拿捕されてしまうが、4月には釈放された。ロシアへ着いたのは5月に入ってからだ。その後、トロツキーはボルシェビキに加わる。

 ロシアで実権を握ったボルシェビキはドイツと1918年3月に講和条約(ブレスト・リトフスク条約)を結ぶ。交渉の過程でドイツは領土などで過大な要求をしてくるが、レーニンは党内の反対派を抑えて講和を成立させた。

 これに対し、イギリス、フランス、アメリカ、日本などは1918年8月にロシアへ軍隊を派遣し、ボルシェビキ政権を潰す目的で干渉戦争を開始する。日本は1万2000名をウラジオストックへ駐留させるだけだとして軍隊を派遣した。干渉戦争に参加した国々にとって十月革命は想定外の出来事だったのだろう。

 この年の11月に事実上、大戦は終了するが、日本は増派で7万人を上回る兵員を送り込み、1922年までシベリアにとどまった。この際、日本軍は金塊を持ち帰っている。この問題は憲政会の中野正剛による質問で表面化した。

 持ち帰られた金塊は1万2000キログラムに達すると現在では考えられているが、そのうち8割ほどは朝鮮銀行の下関支店へ運ばれ、そこから大阪造幣局へ移されたと信じられている。またルーブル金貨は朝鮮銀行か横浜正金銀行で日本の通貨に換金されたと推測されている。(金原左門著『昭和の歴史 1 昭和への胎動』小学館、1988年)

 





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最終更新日  2018.11.12 18:00:06



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