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《櫻井ジャーナル》

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2020.12.02
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 オーストラリア国防省の監察長官は11月10日、同国の特殊部隊、SAS(特殊空挺部隊連隊)の隊員がアフガニスタンで行った戦争犯罪に関する報告書を公表した。25名以上の隊員が市民39名を殺害したのだが、殺された人びとは頭部を撃たれたり、目隠しされた上で喉を切られていたという。14歳の少年ふたりも含まれていた。







 ​この少年殺害を再現した画像を中国外交部で報道官を務める趙立堅は11月30日にツイッターへ投稿​、オーストラリア軍兵士によるオーストラリアにおける残虐な行為を批判したのだが、オーストラリアやイギリスなど西側の有力メディアは「フェイク」だと批判、オーストラリアやニュージーランドの政府は中国政府に対し、謝罪しろと要求している。ただ、アフガニスタン市民を虐殺したことを謝罪するつもりはないようだ。

 アフガニスタンは欧米諸国から何度も侵略を受けた国だが、現在の戦乱は1973年頃に始まっている。パキスタンのベナジル・ブット首相の特別補佐官を務めていたナシルラー・ババールによると、アメリカはその年からアフガニスタンの反体制派へ資金援助しはじめている。反体制派の選定はパキスタンの情報機関ISIのアドバイスに従った。(Robert Dreyfuss, “Devil’s Game”, Henry Holt, 2005)

 本格的な秘密工作を始めたのはズビグネフ・ブレジンスキー。この人物は1977年1月にジミー・カーター大統領の国家安全保障補佐官に就任しているが、その年にパキスタンでは軍事クーデターがあり、ベナジル・ブットの父親であるズルフィカル・アリ・ブットの政権が倒され、陸軍参謀長だったムハンマド・ジア・ウル・ハクが実権を握った。ハクはアメリカのノースカロライナ州にあるフォート・ブラグで訓練を受けた軍人で、ムスリム同胞団系の団体に所属していた。(Thierry Meyssan, “Before Our Very Eyes,” Pregressivepress, 2019)

 1978年にアメリカのCIAとイランのSAVAKはエージェントをアフガニスタンに派遣してモハメド・ダウド政権と接触、軍隊内の左派将校を排除し、人民民主党を弾圧するように工作する。(Diego Cordovez and Selig S. Harrison, “Out of Afghanistan”, Oxford University Press, 1995)

 ダウド政権は左翼、あるいはコミュニストのリーダーを次々に暗殺していくが、間もなくして粛清への反撃が始まり、倒される。1978年4月のことだ。そしてモハメド・タラキが革命評議会兼首相に任命される。このタラキ政権は女性のために学校を創設、貧困層でも大学へ進む道を作り、医療を無料にするといった政策を推進していく。(Martin Walker, “The Cold War”, Fourth Estate, 1993)

 そうしたタラキの政策に反発する勢力は学校や大学を焼き討ち、治安は悪化する。そこでタラキは反対勢力の指導者約2万7000名を処刑したと言われているが、国内を安定させることはできなかった。1979年2月にアメリカのアドルフ・ダッブス大使が誘拐され、殺される。CIAの工作を知った親タラキ派の武装勢力が大使を誘拐したと言われている。彼が拘束されていたホテルへ警察とソ連の顧問が突入したときには殺されていた。(Oliver Stone & Peter Kuznick, “The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012)

 3月にタラキはソ連を訪問、ソ連軍の派遣を要請するが、断られてしまう。その月にイランの革命政府から支援されたアフガニスタンのイスラム勢力がイランとの国境に近いヘラトで多くの政府高官や十数名のソ連人顧問を襲撃して殺害、その際にソ連人顧問の子どもや妻も犠牲になる。(Robert Dreyfuss, “Devil’s Game”, Henry Holt, 2005)

 そして1979年4月、ブレジンスキーはアフガニスタンの「未熟な抵抗グループ」への「同情」をNSC(国家安全保障会議)で訴え、CIAはゲリラへの支援プログラムを開始。その年の9月に軍事クーデターでタラキは殺され、ハフィズラ・アミンが実権を握る。

 アミンは1957年からアメリカのコロンビア大学へ留学、修士号を取得した上、62年にはウィスコンシン大学で学んだ経歴の持ち主。1963年にはアフガン学生協会の会長に就任しているが、この組織に資金を出していたアジア基金はCIAのフロント組織だ。

 アフガニスタンでアメリカ、イスラエル、サウジアラビア、パキスタンなどが使っていた傭兵の少なからぬ部分はサラフィ主義者やムスリム同胞団。その資金源になったのがパキスタンからアフガニスタンの山岳地帯で栽培されていたケシを原料とする麻薬、ヘロインだ。その儲けや工作資金を処理するために作られたのがBCCI(国際信用商業銀行)である。

 この武装集団がアフガニスタンを制圧した場合、その傭兵部隊がソ連に侵攻してくる可能性は高い。当初は戦争の泥沼化を恐れていたソ連政府だが、軍隊の派遣を決断することになる。そして1979年12月にソ連軍の機甲部隊がアフガニスタンへ軍事侵攻した。

 1985年から共産党の書記長に就任したミハイル・ゴルバチョフは87年にアフガニスタンからのソ連軍を引き上げると宣言、89年2月に撤兵を完了させた。

 ソ連消滅後の1994年、CIAはパキスタンのISIの協力を得てタリバーンを組織、傀儡として使おうとするのだが、パイプラインの建設を巡ってアメリカ系企業と対立、98年8月にケニアのナイロビとタンザニアのダル・エス・サラームにあるアメリカ大使館が爆破されるとビル・クリントン政権はオサマ・ビン・ラディンの命令で実行されたと断定、アフガニスタンとスーダンを巡航ミサイルで攻撃している。

 2001年7月にジョージ・W・ブッシュ政権の高官はパキスタンのニアズ・ナイク元外相はアメリカの政府高官から同年10月中旬にアフガニスタンへの軍事行動を開始すると言われたという。(BBC, September 18, 2001)イギリスのガーディアン紙によると、オサマ・ビン・ラディンとタリバーン政権が2001年7月にアメリカから軍事攻撃すると脅されていたという。ベルリンのホテルで行われたアメリカ、ロシア、イラン、パキスタンの代表による話し合いの結果だとされている。(Guardian, September 22, 2001)

 アフガニスタンを攻撃する口実に使われることになるのは2001年9月11日にあったニューヨークの世界貿易センターやバージニア州アーリントンの国防総省本部庁舎(ペンタゴン)への攻撃。ブッシュ政権は詳しい調査をしないまま「アル・カイダ」が実行したと断定、アル・カイダの象徴的な存在だったオサマ・ビン・ラディンを匿っているという口実でアフガニスタンでの戦争を始めた。

 その後、アメリカを含むNATO加盟国やオーストラリアなどがアフガニスタンへの侵略戦争に参加してきた。その戦争を止めるべきだと主張しているのがクリストファー・ミラー国防長官代理の上級顧問になったダグラス・マグレガー。この人物はイスラエル・ロビーのアメリカに対する影響力の大きさに批判的で、ポンペオ国務長官やジョン・ボルトン元国家安全補佐官はイスラエル・ロビーからカネを受け取って大金持ちになったと批判している。

 それ位に対し、次期大統領になる可能性の高いジョー・バイデンはトランプの方針に反対、中東に軍隊を居座らせ、戦い続けさせようとしている。そうした中、オーストラリア軍のSASによる残虐行為を世界の人々に知られることはバイデンやその支持者たちにとって好ましくないのだろう。






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最終更新日  2020.12.02 08:58:06



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