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《櫻井ジャーナル》

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2022.06.13
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 選挙で合法的に選ばれた政権を暴力的なクーデターで転覆させ、ナチズムを国中に蔓延させ、そのクーデターに抵抗する国民が住む地域を軍事攻撃し、破壊と殺戮を繰り広げる行為を黙認していた人びとが突如、「戦争反対」を主張し始めたとしたなら、その理由は何なのか。如何わしさを感じざるをえない。

 ベトナム戦争の終盤、世界的に戦争反対の声が高まったが、テト攻勢があった1968年まで、そうした声はか細かった。1967年4月4日、マーチン・ルーサー・キング牧師はニューヨークのリバーサイド教会で「ベトナムを憂慮する牧師と信徒」が主催する集会に参加、「沈黙が背信である時が来ている」という訴えに賛意を示し、「なぜ私はベトナムにおける戦争に反対するのか」という話をしている。

 大半のアメリカ国民はベトナム戦争の悲惨な現実から目をそらし、自分自身を欺いていると指摘、そうした偽りの中で生きることは精神的な奴隷状態で生きることを意味すると牧師は語り、ベトナム戦争に反対すると宣言している。

 そうした発言をキング牧師の側近たちは嫌がっていたという。ロン・ポール元下院議員によると、​キング牧師の顧問たちは牧師に対してベトナム戦争に焦点を当てないよう懇願していた​というのである。そうした発言はリンドン・ジョンソン大統領との関係を悪化させると判断したのだという。これが「リベラル派」の発想なのだろう。彼らは決して心からの平和主義者ではなく、牧師には「公民権運動の指導者」に留まってほしかったのだろう。

 1973年1月にパリで停戦協定が成立、ベトナム戦争は終結に向かう。本ブログでは繰り返し書いてきたように、歴史の流れから判断してベトナム戦争はアメリカの対中国戦争の一環。そのアメリカと中国は1971年7月にリチャード・ニクソン大統領の訪中で国交正常化に向かう。ニクソン政権にとってベトナム戦争を継続する意味はなくなっていた。中国と手を組み、矛先をソ連へ向けようとしたように見える。ベトナム戦争が終わってから再び反戦の声は小さくなっていった。

 CIAは1973年にアフガニスタンで秘密工作を始めた。パキスタンのベナジル・ブット首相の特別補佐官を務めていたナシルラー・ババールによると、その年からアメリカはアフガニスタンの反体制派へ資金援助しはじめているのだ。支援対象の選定はパキスタンの情報機関ISIのアドバイスに基づくとされている。(Robert Dreyfuss, “Devil’s Game”, Henry Holt, 2005)

 この工作にはひとつの障害があった。ベナジル・ブットの父親、ズルフィカル・アリ・ブットだ。ブット政権は1977年に軍事クーデターで排除され、ブット自身は79年に処刑された。クーデターを主導したムハンマド・ジア・ウル・ハクは陸軍参謀長だった人物で、ムスリム同胞団系の団体に所属していた。(Thierry Meyssan, “Before Our Very Eyes,” Pregressivepress, 2019)

 1978年にアメリカのCIA、そしてイランのSAVAKというふたつの情報機関は大金を持たせたエージェントをアフガニスタンへ派遣、軍隊の中で左派の将校を排除し、人民民主党を弾圧するように工作している。(Diego Cordovez and Selig S. Harrison, “Out of Afghanistan”, Oxford University Press, 1995)

 アフガニスタンのモハメド・ダウド大統領はソ連から離れてインドやイランへ近づき、「死の部隊」を使って左翼、あるいはコミュニストのリーダーを次々に暗殺していくが、そうした粛清への反撃が間もなく始まり、1978年4月にダウド政権はクーデターで倒された。

 そしてモハメド・タラキが革命評議会兼首相に任命され、新政権は女性のために学校を創設、貧困層でも大学へ進む道を作り、医療を無料にするといった政策を推進していく。(Martin Walker, “The Cold War”, Fourth Estate, 1993)

 ズビグネフ・ブレジンスキーたちはこのクーデターの背後にソ連がいると宣伝したが、証拠はなく、国務長官だったサイラス・バンスはその主張を冷戦の夢想だとして相手にしなかった。

 反タラキ勢力は女性のための学校や大学を焼き討ちし、治安は悪化していく。タラキは旧体制の指導者たち約2万7000名を処刑したとも言われているが、国内を安定化させることに失敗した。反政府活動の黒幕はCIAだとタラキ政権は確信していたとも言われている。

 CIAがタラキ政権を嫌った理由のひとつは、ヘロインの原料であるケシの栽培を厳しく取り締まり、その畑を潰していったからだとも言われている。(Paul L. Williams, “Operation Gladio,” Promethus Books, 2015)

 ベトナム戦争の終結で東南アジアでケシの栽培が取り締まられるようになり、CIAは新たな栽培地としてアフガニスタン、パキスタン、イランをまたがる山岳地帯に目をつけていたのだ。

 タラキが実権を握って間もない1978年7月にアドルフ・ダブスがアフガニスタン駐在アメリカ大使に就任したが、この人物はリチャード・ニクソンのデタント政策を擁護していたことで知られ、ブレジンスキーとは対立していた。

 ダブスはアフガニスタンにおける麻薬の生産と流通を制御しようとしたが、その一方でハフィズラ・アミンと友好的な関係を築き、アフガニスタンをソ連から引き離そうとした。1979年2月にダブス大使は殺害される。ダブスが拘束されていたホテルへ警察とソ連の顧問が突入した時にはすでに殺されていた。ブレジンスキーたちはソ連の責任を主張している。(Oliver Stone & Peter Kuznick, “The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012)

 3月にタラキはクレムリンへ出向いてソ連軍の派遣を要請するが、アレクセイ・コスイギン首相はこの要請を断わっている。軍事介入するとアフガニスタンの泥沼から抜け出せなくと考えたのだ。戦乱を避けようとしたダブスの政策が実行されたなら、ソ連軍も介入しなかった可能性が高い。ブレジンスキーたちにとってダブス殺害は好都合だった。

 タラキがソ連を訪れた月にイランとの国境に近いヘラトで多くの政府高官や十数名のソ連人顧問が襲撃され、殺されている。その際にソ連人顧問の子どもや妻も犠牲になった。襲撃したのはイランの革命政府から支援されたアフガニスタンのイスラム勢力だという。(Robert Dreyfuss, “Devil’s Game”, Henry Holt, 2005)

 こうした流れの中、1979年4月にブレジンスキーはアフガニスタンの「未熟な抵抗グループ」への「同情」をNSCで訴え、CIAはゲリラへの新たな支援プログラムを開始している。

 その年の9月に軍事クーデターでタラキは殺され、アミンが実権を握る。アミンはクーデター後にアメリカ大使館のスタッフと定期的に会っていたとされているが、その背景にはアメリカとのつながりがあった。

 CIAが傭兵として使い始めたサラフィ主義者(ワッハーブ派、タクフィール主義者)やムスリム同胞団がアフガニスタンを制圧した場合、ソ連へアメリカの傭兵部隊が侵攻してくることは不可避。それを迎え撃つかアフガンスタンで戦うかの選択を迫られたソ連は後者を選んだ。そして1979年12月にソ連軍の機甲部隊がアフガニスタンへ軍事侵攻してくる。

 西側の有力メディアはストーリーをソ連軍のアフガニスタン侵攻から始め、サラフィ主義者やムスリム同胞団で編成された戦闘部隊に「自由の戦士」というタグをつけ、その戦闘員をソ連軍と戦わせた戦いを「正義の戦争」と呼んだ。

 アフガニスタンへ戦闘員を送り込む仕事をしていたひとりがサウジアラビアの富豪の息子、オサマ・ビン・ラディン。この人物は1984年にMAK(礼拝事務局)のオフィスをパキスタンのペシャワルで開設。このMAKが「アル・カイダ」の源流だと考えられている。

 イギリスの外務大臣を1997年5月から2001年6月まで務めた​ロビン・クックは2005年7月、CIAの訓練を受けた「ムジャヒディン」の登録リストが「アル・カイダ」だと説明​している。

 1989年2月に軍隊をアフガニスタンから撤退させたソ連は1991年12月に消滅、アメリカは旧ソ連圏の解体作業に取り掛かり、1999年3月にアメリカ/NATO軍はユーゴスラビアを先制攻撃している。

 そして2001年9月11日にニューヨークの世界貿易センターとバージニア州アーリントンの国防総省本部庁舎が攻撃され、ネオコンに担がれていたジョージ・W・ブッシュ大統領は詳しい調査をしないまま「アル・カイダ」が実行したと断定、アフガニスタンを攻撃する。2003年には「大量破壊兵器」という嘘を振り撒きながらイラクを先制攻撃、中東から北アフリカにかけてを戦火で破壊してきた。

 アメリカのジョーンズ・ホプキンス大学とアル・ムスタンシリヤ大学の共同研究によると、イラクでの戦争では2003年の開戦から06年7月までに約65万人が殺されたとされ(Gilbert Burnham, Riyadh Lafta, Shannaon Doocy, Les Roberts, “Mortality after the 2003 invasion of Iraq”, The Lancet, October 11, 2006)、イギリスの​ORB​は2007年夏までに94万6000名から112万人、NGOの​ジャスト・フォーリン・ポリシー​は133万9000人余りが殺されたとしている。

 今回、西側の有力メディアはウクライナからの避難民を助けろと叫んでいたが、その理由は彼らの「目が青く、ブロンドのキリスト教徒」だからだとしていた。イラク人はそうでないので心を動かされなかったのだろうが、そうした発想をする人は「人種差別主義者」と呼ばれても仕方がない。ウクライナではクーデター政権が東部や南部に住む反クーデター派の住民を殺害しているが、そうした行為にも西側は心を動かされなかったようだ。






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最終更新日  2022.06.13 12:28:04



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