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《櫻井ジャーナル》

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2022.12.08
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 ジョン・レノンがニューヨークで殺されたのは1980年12月8日のことだった。今から42年前のことだ。

 その当時、アメリカではソ連に対する秘密工作を始動させていた。例えば1979年7月にエルサレムで「国際テロリズム」に関する会議を開いている。出席したのはアメリカとイスラエルの情報機関に関係した人びと。「テロの原因」をソ連政府の政策、あるいはその陰謀にあるとする宣伝を行い、ソ連に対する攻撃を正当化しようとしていた。

 1979年12月にはNATO理事会が83年にパーシング2ミサイル572基をNATO加盟国に配備することを決定、核戦争を懸念する声が世界的に高まり、反戦/反核運動が盛り上がる。そうした動きにレノンが参加する可能性は高かった。

 1980年のアメリカ大統領選挙で現職のジミー・カーターを破ったロナルド・レーガンがは1982年にNSDD(国家安全保障決定指令)55を出して一種の戒厳令プロジェクトであるCOGを承認、憲法の機能を停止させる準備を始める。このプロジェクトは2001年9月11日直後に制定された「愛国者法(注)」につながった。(Andrew Cockburn, “Rumsfeld”, Scribner, 2007)

 パキスタンのベナジル・ブット首相の特別補佐官を務めていたナシルラー・ババールが1989年に語ったところによると、アメリカは1973年からアフガニスタンの反体制派へ資金援助しはじめ、パキスタンの情報機関ISIの助言により、クルブディン・ヘクマチアルに目を付ける。(Robert Dreyfuss, “Devil’s Game”, Henry Holt, 2005)

 アフガニスタンでの工作を本格化させる前にCIAとISIはベナジル・ブットの父親、ズルフィカル・アリ・ブットの政権を1977年に軍事クーデターで倒し、ブット自身を79年に処刑した。

 クーデターを主導した陸軍参謀長だったムハンマド・ジア・ウル・ハクはノースカロライナ州のフォート・ブラグで訓練を受けた軍人で、ムスリム同胞団系の団体に所属していた。(Thierry Meyssan, “Before Our Very Eyes,” Pregressivepress, 2019)

 アメリカより早くムスリム同胞団を利用しようと動いていたのはイギリス。1972年から73年にかけてイギリス外務省のジェームズ・クレイグとエジプト駐在英国大使だったリチャード・ビューモントがロビー活動を展開したのだ。(Thierry Meyssan, “Before Our Very Eyes,” Pregressivepress, 2019)

 1978年にはアメリカのCIAとイランのSAVAKが大金を持たせたエージェントをアフガニスタンへ派遣、軍隊の中で左派の将校を排除し、人民民主党を弾圧するように工作している。(Diego Cordovez and Selig S. Harrison, “Out of Afghanistan”, Oxford University Press, 1995)

 アフガニスタンのモハメド・ダウド大統領はアメリカへ接近するが、1978年4月にクーデターで倒され、モハメド・タラキが革命評議会兼首相に任命される。ブレジンスキーたちはこのクーデターの背後にソ連がいると宣伝したが、証拠はなく、国務長官だったサイラス・バンスはその主張を冷戦の夢想だとして相手にしなかった。そのタラキ政権は女性のために学校を創設、貧困層でも大学へ進む道を作り、医療を無料にするといった政策を推進していく。(Martin Walker, “The Cold War”, Fourth Estate, 1993)

 ブレジンスキーが手先に選んだヘクマチアルの周辺にはサウジアラビアの協力でサラフィ主義者(ワッハーブ派、タクフィール主義者)やムスリム同胞団のメンバーが戦闘員として送り込めれていく。そうした武装勢力の資金源はベトナム戦争の時と同じように麻薬が利用された。

 タラキが実権を握って間もない1978年7月にアフガニスタン駐在アメリカ大使へ就任したアドルフ・ダブスはリチャード・ニクソンのデタント政策を擁護していたことで知られ、ブレジンスキーとは対立していた。

 そのダブスは1979年2月に拉致され、彼が拘束されていたホテルへ警察とソ連の顧問が突入した時にはすでに殺されていた。ダブスはアフガニスタンでの工作を進めるため、「生贄になった」という見方もあるが、真相は不明だ。ブレジンスキーたちはソ連の責任を主張した。(Oliver Stone & Peter Kuznick, “The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012)

 1979年9月には軍事クーデターでタラキは殺され、ダブスが接触していたハフィズラ・アミンが実権を握る。アミンはクーデター後にアメリカ大使館のスタッフと定期的に会っていたとされているが、その背景にはアメリカとのつながりがあった。

 サラフィ主義者やムスリム同胞団を中心とする傭兵がアフガニスタンを制圧した場合、ソ連へその戦闘部隊が侵攻してくることは不可避。それを迎え撃つかアフガンスタンで戦うかの選択を迫られたソ連は後者を選んだ。そして1979年12月にソ連軍の機甲部隊がアフガニスタンへ軍事侵攻してくる。

 そのソ連軍と戦う戦闘員を集め、訓練、兵器を供給する仕組みをブレジンスキーは作る。それが「アル・カイダ(データベース)」であり、戦闘員のリクルートを担当していたのがオサマ・ビン・ラディンだ。

 こうした好戦的な政策を推進していたのはジェラルド・フォード政権で台頭したネオコンである。フォードはウォーターゲート事件でニクソンが失脚した後、副大統領から昇格した人物。大統領に就任してからデタント派を粛清している。

 一方、ソ連では1982年11月にレオニード・ブレジネフ書記長が死亡、1967年から82年にかけてKGBのトップだったユーリ・アンドロポフが後継者になるのものの、そのアンドロポフは84年2月に腎臓病で死ぬ。その後を継いだコンスタンチン・チェルネンコは1985年3月に心臓病でそれぞれ死亡した。そして登場してくるのがミハイル・ゴルバチョフだ。立て続けにトップが死んだわけだが、当時、情報関係者の間では「暗殺」の噂が流れていた。

 ゴルバチョフはニコライ・ブハーリンを「別の選択肢」として研究していたグループのひとり。西側の「民主主義」を信じ、アメリカの支配層を信頼する。アメリカに洗脳されていたとも言えるが、KGBの中枢にはアメリカの意図を理解した上でアメリカに協力するグループが存在していたと言われている。

 実権を握ったゴルバチョフはソ連の「改革」に乗り出し、打ち出したのがペレストロイカ(建て直し)だが、これを考え出したのはKGBの頭脳とも言われ、政治警察局を指揮していたフィリップ・ボブコフだとされている。(F. William Engdahl, “Manifest Destiny,” mine.Books, 2018)

 このボブコフはKGBの将軍で同僚だったアレクセイ・コンドーロフと同じようにジョージ・H・W・ブッシュをはじめとするCIAのネットワークと連携していたとする情報がある。CIA人脈とKGB中枢が手を組み、ソ連を消滅させ、解体して資産を盗んだというのだ。「ハンマー作戦」だ。

 このグループに操られていた政治家のひとりがボリス・エリツィン。ソ連消滅後、エリツィン時代のロシアでは国民の資産が不正な手段で一部の人びとに略奪される。略奪によって巨万の富を築いた若者は「オリガルヒ」と呼ばれるようになり、大多数の人びとは貧困化した。オリガルヒをロシア国内で操っていたのがクーデターを実行したKGBの幹部だと言われている。

(注)愛国者法:USA PATRIOT Act / Uniting and Strengthening America by Providing Appropriate Tools Required to Intercept and Obstruct Terrorism Act of 2001






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最終更新日  2022.12.08 21:41:28



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