「国体」というと「国民体育大会」しか思い浮かばない人達が増えているそうだ。「天皇キカン説」と聞いて「天皇基幹説」という漢字を思い浮かべるのと似たようなものか。

古い言葉は忘れ去られるのが当然とはいえ、ある種のキーワードはそれを忘れることがその歴史的背景を忘れることのようで、少し不安になる。

もっとも、僕たちの世代は、「国体」や「天皇制」などの言葉には否定的に反応するように育てられた世代で、アレルギー反応をするばかりではより客観的な理解をできないわけで、これはこれで困った問題だ。（その傾向を是正しようとしているのが、文春を中心とする昨今の歴史修正の試みなのは、よくわかっているが、文春的論議の多くはあまりにも逆方向に偏っているようで、これまた気に入らない。）

いずれにしても、もう少し歴史を知らないと、議論をしても噛みあうはずもないし、非生産的だ。国体という言葉はもともとどういう意味だったのだろう。

ざっと調べたところ、「国体」という言葉は後期水戸学派の一人、会沢正志斎（あいざわせいしさい、 1782-1863）の「新論」（1825年）という著作に由来しているようだ。（例えば、楽天ブロッグ「武蔵野航海記」を参照。）

「新論」の世界観では、日本を華夷秩序の中心と考える。中華思想に基づく華夷秩序は、文明の中心の「中華」と光の当たらない周辺の夷狄（東夷、西戎、南蛮、北狄）から成る。中華の天子（＝皇帝）は、天の大命を受け中華を統治する。「新論」では、天皇こそが中華の天子と見做される。

中華思想では、「中華」は徳をもって周辺の「夷狄」を教化していく天命を受けている。近代のネーション＝ステートのようなはっきりとした国境を持つわけではないので、中華思想の世界観の中には、膨張する帝国意識が刷り込まれていると言っていいかも知れない。

「新論」の序文にこうある。

謹んで思うに、神国日本は・・・日の神の御子孫たる天皇が世々皇位につきたもうて永久に変わることのない国柄である。本来おのずからに世界の頭首の地位にあたっており、万国を統括する存在である。・・・しかるにいま西の果ての野蛮なるものどもが、世界の末端に位置する下等の存在でありながら、四方の海を駆け巡り、諸国を蹂躙し、身の程知らずにも、あえて貴いわが神国を凌駕せんとしている。なんたる傲慢さであろうぞ。（橋川文三訳）

攘夷を唱える幕末の志士達の間では、これに通じていないと肩身の狭い思いをしたそうだ。なるほど、排外的な世界観がはっきりと出ている。本当は日本が世界の長としてあるべきものだが、野蛮人が世界のあちこちを蹂躙しているのは許せない、というのだ。

会沢が「新論」を書いた理由は、軍事的にも戦略的にも優位に立つ西洋諸国（会沢は特にロシアに注目した）が日本に侵略して来る、という危機感を持っていたからだ。18世紀後半から19世紀前半にかけて西欧に危機意識を抱いていた対外論は林子平の「海国兵談」（1791年）くらいで、会沢の見解は1825年の時点では少数派であったようだ

危機対策の一環として、会沢はナショナル・アイデンティティの喚起を持ち出した。そのために「国体」という概念を導入したのだろう。

以上をおおざっぱに見れば、はたして日本であるか、明・清であるか、それともインドであるか、または西洋であるか。国体はいったいどうなっているのかというありさまである。いったい四肢の具わらぬものは人間とはいえない。国としてその体を持たねばどうして国といえよう。（橋川文三訳）

会沢の考える「国体」は（若干単純化するが）、天祖＝天孫＝天皇－民、という時間軸のつながり（＝で結ばれた関係）と空間軸のつながり（－で結ばれた関係）を結び付けて成り立つ。時間軸のつながりは、天照大神が建てた国を天孫である歴代の天皇が受け継いできた、という神話的世界だ。空間軸のつながりは現実の天皇と民との関係で、天皇を象徴的な親として捉え、民に恩愛を施し、民は天皇に対して「忠」を尽くすが、親に対する「孝」と同じものとなる。天祖への真心と敬意を表すことが祭祀であり、現実の統治がまつりごとである。この二つが天孫である天皇によって行われることで（祭政一致）天下がゆるぎなく平和に治まる。

というのが、会沢正志斎の「国体」の概略だ。ペリー来航以降の幕末思想界に驚くほど広汎な影響を与えた。