ジャニス・ジョップリンの伝記的事実には今までそれほど興味を持ったことがなかった。1970年10月にヘロインのODで死んだことくらいは知っていたが・・・今度、
ジャニス・ジョップリン コミュニティに加入したことがきっかけで、昔の恋人からの手紙を読み返すように、少し調べてみた。コミュニティの立ち上げ人である
ミッドナイト・ドリームさんから、「ジャニス・ジョップリンのビデオ・クリップがウエッブにたくさんありますよ」と言われ、YouTubeを検索してみた。いや、ほんとにYouTubeというのはおそろしいサイトで、コンサートのクリップも何百とあるし、興味深いインタビューもいくつかあった。そこで拾い集めた伝記的事実のいくつかを紹介しよう、ストーリーにするほどの余裕もないのでただ羅列するに留めるが。
- 1960年代後半、男が独占していたロックン・ロールの世界を流星のように過ぎ去った数少ない女性シンガーだった。白人にブルースなんか歌えねえよ、だってあいつらには黒人の受難の歴史がわかりゃしないからさ、というのが通説だった時代に、奇跡のようにブルースを吐き出していった白人の女性だった。
- 1943年1月19日、テキサス州のポート・アーサー(Port Arthur)というブルー・カラー中心の町で生まれたのだが、ボブ・ディランの生まれた(1941年)ミネソタ州のドゥルースがそうだったように、ブルー・カラーの町はどうしても保守的傾向が強いようで、そこからはみ出てしまうような感覚を持つ人間は爪弾きにされる。明らかにジャニスは地元の高校で冷たくされたようだ。有名になってから、ディック・カヴェット・ショーでのインタビューで、今度高校の十周年同窓会に出るのを楽しみにしている、昔はみんなに笑われたけど、今は彼らを笑い返してやるんだ、みたいなことを嬉しそうに語っていた。おそらく本音だろう、その気持ちよくわかる。
- ジャニスが歌手として歌いだしたのがテキサス州オースティンにあるThreadgill'sというバー、テキサス大学在学中のことだった。しかし、大学ではやはりはみ出し物だったようで、「キャンパスで一番醜い人」に選ばれた、という。最初の学期に大学を中退した。テキサスの高校そして大学で味わった屈辱はジャニスの心から消えることはなかった。
- 1963年、ジャニスは当時の反抗的若者文化のメッカ、サンフランシスコにやって来た。1964年6月25日、後にジェファーソン・エアプレーンのギタリストになるヨーマ・カウコネン(Jorma Kaukonen)と何曲かのブルースを、彼の自宅で録音した。バックで、マーガレタ・カウコウネンが打楽器の変わりにタイプライターをリズムよく叩いている。このとき録音された7曲は海賊版、The Typewriter Tapeとして出回っている。
- いったんポート・アーサーに戻った後、1966年夏、再びサンフランシスコのヘイト・アッシュベリー地区(Haight-Ashbury)に移り住んだ。1960年代にヒッピー文化が芽生え満開した場所、ヘイト・アッシュベリー地区は、ゴールデンゲート・パークの東側、ブエナ・ビスタ・パークの西側にある、ヘイト通りとアッシュベリー通りの交差点を中心とする近隣だ。
- この時、ジャニスをBig Brother and the Holding Companyに紹介したのは、テキサスでジャニスを知っていた、このバンドのマネージャー、チェット・ヘルムズ(Chet Helms)だった。1967年6月、モントレー・ポップ・フェスティバルでの演奏で、ジャニスとビッグブラザーの名前は一夜にして全米に知れ渡る事になる。1967年6月のモントレー・ポップは、カウンターカルチャー音楽ファンにとっては忘れることのできないもので、ジャニス・ジョップリン、ジミ・ヘンドリクス、オーティス・レディング、ザ・フーという連中がここを発射台にして世界に飛び立つことになる。このフェスティバルを撮影したのはD.A.ペネベーカー(Donald Alan Pennbaker)。
- 成功には常に分裂が伴う。1967年11月、ジャニスとビッグブラザーはより大きな成功を求めて(だろうと想像するのだが)、マネージャーをアルバート・グロスマン(Albert Grossman)に替える。グロスマンはボブ・ディランやジョーン・バエズをマネージしていた大物だった。この後、ビッグブラザーを辞め、コズミック・ブルースバンドを結成し(このバンドにはホーンセクションを入れていた)、最後にフルティルト・ブギーバンドを組むのだが、その辺のことはアメリカのウィキピディアが詳しい。
- 成功してからのジャニスは、男性のロックバンドのメンバーがグルーピーの女性たちとセックスを楽しむのを真似るように、一夜限りのセックスをかなり嗜んだ。彼女の場合はグルーピーの男達とではなく他のアーティスト達とのようであった、例えば、ジム・モリソン、ジミ・ヘンドリクス、そしてクリス・クリストファソン。1999年に出版されたAlice Echolsの伝記「Scars of Sweet Paradise: The Life and Times of Janis Joplin」によれば、ジャニスは高校時代から同性の恋人がいたようで、概して男達が短期間のベッド友達であったのに較べて、女性の愛人、ペギー・カサータ(Peggy Caserta)との関係は1967年から彼女の死まで続いていた。
- 晩年の、というのは1970年位の事だが、ジャニスはコンサートでの出演時間を遅らせなければならないこともしばしばあるほどアル中で薬漬けで、もう長くないと噂されていた。友人であり彼女とのインタビューを何度かしていたディック・カヴェットが思い出して語っている(2000年1月放映のABCの特別番組)。番組終了後の夕食の時ジャニスに訊ねた・・・「ヘロインもやってるのかって、そしたら、ジャニスは、だったらどうだって言うの、誰も心配してくれるわけじゃないでしょ(If I were, who would care?)、と言ったんだ。僕は、彼女の言葉の拒絶する雰囲気に返す言葉がなかった。普通だったら、僕は心配するよ、と言うところなのに、それができなかった。なんて言うか、もういまさらどうすることもできないんだという諦めの空気が漂っていて(It seems to me such an admission of, in some way, it's over)」。
- 同じ番組で、クリス・クリストファソンが語っている。1970年10月3日、ジョーン・バエズが台所から出てきてクリストファソンに告げた、ジャニスが死んだって・・・「翌日スタジオに行って、ジャニスの録音した「僕とボビー・マギー」を聴いた。この歌はジャニスのために書いた曲じゃないんだけど、まるでジャニスのことのようだ、特に Somewhere near Salinas, I let her slip away、She's looking for that home and I hope she finds it という部分((モントレーの近くの)サリナスの近くで、ボビーがいなくなっちゃったのさ、しっかり掴んでおかなかったんだろうな、あいつ自分の帰る家を探してたんだよ、見つかるといいけど)。
この週末は、ジャニスという麻薬に浸かってしまった。インタビューでジャニスが言っていたが、彼女のパフォーマンスはドクドクと流れ出てくる感情をそのまま表出したものだった。そこには、コマーシャリズムの企画もなく、観客におもねる演出もない、唐突な一期一会があるだけだ。彼女の自暴自棄の死は音楽にとってはとてつもない損失だが、その鮮烈さに、ペルソナを被った僕達の演技性人生の薄っぺらさを思い知らされる。(YouTubeではウィルスにも出くわした、皆さんも気をつけて。)