テーマ:思ったこと 考えたこと(843)
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一時はイベリア半島のほぼ全体を支配下に置いたイスラム王国の最後の領土、グラナダとその周辺、現在はアンダルシアと呼ばれる地域、がとうとう降伏したのは1492年1月、およそ800年続いたイスラム支配がこれで払拭され、イサベルとフェルナンド(注1)の手でレコンキスタ(西Reconquista、国土回復戦争)が完結した。
グラナダの降伏は、これに先立つ1491年11月に締結されたグラナダ条約に基づいて行われた。条約の67の条項の中には(英語版のWikipediaでは67条、スペイン語版では何故か77条となっている)、イスラム教徒(当時の呼び方ではムーア人、英Moor西Moro)はイスラム教の信仰を継続できること、現在の住居に留まり安全を保障されること、砲以外の武器と馬を保有できること、イスラムの法廷でイスラム法によってのみ裁かれること、収穫税と家畜税以外の税金を払う義務のないこと、ユダヤ人が義務付けられているような衣服にイスラム教徒の徴をつける必要のないこと、などが含まれていた(注2)。多くのイスラム教徒はこの時国外に出ることを選んだが、旧グラナダ王国領土内に留まり、しかもキリスト教徒に改宗しなかったイスラム教徒、ムデハル、も少なくなかった。 条約の内容がイスラム教徒に対して非常に寛容なものだったのは、少々意外だ。というのも、1492年3月には、イサベル・フェルナンドは<ユダヤ人追放の勅令>を出し、王国内のユダヤ人の駆逐を敢行している。キリスト教徒のみの王国を目標としていた、そんな二人が、グラナダのイスラム教徒になぜそのまま留まることを許したのか不可解だ。流血の惨事を恐れて一時凌ぎの空手形を切ったのか、あるいは当時イサベルの懺悔の聴聞役兼相談役だったHernando de Talaveraというカトリックの修道士の「教育と説得で漸次改宗していく」という考え方に従ったのか、わからない。 注1 イサベル(Isabel)、フェルナンド(Fernando)という綴り・読み方はスペイン語のもので、英語では若干変わってくる。カスティーリャ女王のイサベル一世は、英語ではIsabella(イザベラ)、アラゴン王のフェルナンド二世は、英語ではFerdinand(フェルディナンド)、また地元のアラゴン語ではFerrando(フェランド)となる。 注2 グラナダ条約の抜粋は英語版やスペイン語版のWikipediaにもあるが、ここではEarly Modern Spain: A Documentary History、Jon Cowans (ed.) 2003、から拙訳した。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2017.01.10 15:47:15
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