久しぶり、村野瀬さまの転載です。
特に保存版としたのは、何度もなんども読み返したい内容と思ったからです。
今、そう今だから、是非とも胸に刻みたい文です。
はじめ。「
東 京新聞紙上で、星野智幸さんという作家を知りました。共感できる文章があったため、調べてみると、別の日の紙面にも共感する文章が載っていました。星野智 幸さんと、星野さんに原稿を依頼しようと考えた東京新聞の編集担当者に深く感謝しながら、特に、生と死の問題、死刑問題に触れた文章を三つ、ここに転載さ せていただこうと思います。
死刑は死を抑止するのではなくて死をうながす、という見方は、今の日本が、年間3万件以上の自殺を起こす原因 を放置し、労働者切りを容認または促進する制度をつくってきたこと、経済力や権力のある者たちの横暴など、社会が荒れ果てるにまかせている現状とあいまっ て、納得できる観察です。社会が荒れ果てれば、それなりの暴力的方法を用いる者が出てくるのも必然ですから。
2008年11月28日 東京新聞夕刊 第一面コラム「放射線」より
死をうながす死刑 星野智幸
長いこと、私は死刑を必要悪だと思ってきたが、ここ数年で、死刑はなくすべきだと考えが変わった。
刑 罰には、社会に対する警告やメッセージという側面がある。乱暴に言えば、死刑は「殺したものは殺される、それでもよいのか?」という抑止だったはずだ。だ が、今は本当に抑止として機能しているかと言うと、私には正反対の効果を及ぼしているようにしか見えない。すなわち、「余計な人間の命は奪ってもよい。生 きているに値しない人間は、死んでよい」とでも言うような、人を死や殺人へと駆りたてるグロテスクなメッセージに変わったと感じる。
「誰でもいいから殺して死刑になりたかった」という理由で通り魔事件が相次いだのは、今年の前半だった。元厚生事務次官らの殺傷事件も、同類だと私には思える。それだけではない。毎年三万人以上が自殺するのも、死刑執行が発するこのメッセージの圧力と無縁ではなかろう。
私 たちは自覚できないほど深く、自分のまわりにいる人間から影響を受ける。大人が次々と自ら命を絶っていく環境は、「自殺は普通のことだ」というメッセージ となり、死へのハードルを低くする。同様に、死刑判決が乱発され、次々と執行される世では、他人の命を奪うことへのハードルが低くなる。死へ駆りたてられ る社会では、「死ぬこと」も「殺すこと」も同じ行為になってしまう。
死刑が目立つ社会は、戦争下にある社会とあまり変わらない。だから死刑は廃止する必要があると思うのである。
(引用ここまで)
2008年12月19日 東京新聞夕刊 第一面コラム「放射線」より
「生きるな」 星野智幸
社会には文脈があり、同じ行為でも、例えば時代背景という文脈の違いによって、意味が変わってくる。カウンターカルチャー全盛期の1960年代に大麻を吸えば、反権力の犯罪とも解釈されただろうが、現在の大麻は、麻薬へと続く自己破壊でしかない。
私は今、「マリフアナ」とは書かなかった。「大麻汚染」など、報道は「マリフアナ」でなく「大麻」を使う。その結果、「大麻」には犯罪イメージが染みつく。私はあえて犯罪の印象を強めたのだ。
これも文脈である。文脈を読む能力とは、リテラシーである。リテラシーが低いと、世の中の情報を何でも鵜呑みにしやすくなったり、暴力的な失言が増えたりする。だから、社会的文脈を作る力を持った権力者やメディアには、高いリテラシーが求められる。
だが、実態はどうか。巨額の利益を上げ体力のある大企業が、非正規雇用者の首切りを、率先して行う。皆やっていることだからと、内定取り消しを平然と行う会社が続出する。加えて、ここ何代かの首相の、無責任なさま。
これがどんな文脈を作り出すか。損をしないためなら、人を死に直面させても構わない。他人の命など気に掛けるより、自分のことを考えろ。大人は下の世代を壊そうとしている。無用な人間は、強引にでも排除してよい...。
社会の文脈を読めば読むほど、「生きるな」というメッセージばかりが目立つ。今、権力者に必要なのは、死を促す文脈を断ち切り、「生きよう」と思わせる文脈を作り出すリテラシーではないのか。
(引用ここまで)
2008年12月21日 東京新聞朝刊 書評欄より
『愛と痛み』 辺見 庸 著 (毎日新聞社、1050円) 書評 星野智幸
裁判員制度が始まる今、自分が選ばれたら死刑判決をくだせるのか、という不安を抱く人は多いだろう。そんな人には、死刑を巡る講演録である本書を強くお薦めする。
日 本の大多数同様、私も死刑は必要悪だと思ってきた。けれど、ここ数年、死刑判決や死刑執行が急増するうち、殺すことが奨励されているような嫌な空気を感じ 始めた。「誰が死刑と決めたんですか?」「みんなですよ」と、まるで雰囲気で死刑が決まるかのようだ。裁判員制度が始まれば、「死刑と決めたのは自分だ」 とはっきりする。もう、他人に責任転嫁はできない。私たちはその重責に耐えられるのか。
辺見庸は言う。
「死刑は国権の発動ではないのか。国権の発動とは、自国民への生殺与奪の権利を国家にあたえるということです」
死刑の責任主体は、国家だというのだ。ところが日本では、その仕組みがよく見えない。「世間」が存在するからだ。
本 書で最も厳しく批判されているのが、この「世間」である。個人が集まって共存する「社会」とは異なり、「言葉で強要されることはないけれど、かわりに気配 や空気で無私であることが期待される」、自分のない者たちの集合体。誰も自分を持たないのだから、国が暗黙のうちに死刑を欲すれば、「そうだ、死刑だ」と 空気を読んで同調する。死刑判決にお墨つきを与えながら、痛みを感じるべき自分がない。
裁判員になると、国家が負うべきこの責任を、数人の個人が負わされる。辺見庸は、死刑が執行される場面を執拗に描写する。私たちは間接的に、こんなグロテスクで残虐で痛みに満ちた行為を行っているのだ、と認識するために。
私たち個人が責任を負えない死刑を、制度として認め続けてよいのだろうか。もう、「みんなの責任」と逃れることはできない。自らの心で考えて結論を出す時期が来たと、本書は告げている。
(引用ここまで)
ついでにと言ってはなんですが、もう一つ、日本の社会と人心の現状についての文章。
2008年12月26日 東京新聞夕刊 第一面コラム「放射線」より
右傾化10年 星野智幸
来年は2009年だが、1999年の日記に私は次のようなことを書いている。
「1999 年は日本の右傾化元年だと記憶することにしている。右傾化とは、国旗国家法や通信傍受法を成立させガイドライン改定を行うといった出来事だけではなく、自 己を何か曖昧で集団的なものに委ねることが本格的に始まった動きを指す。オウム真理教の代わりに、誰もが納得でき言い訳の立つものに帰依しようとしてい る。そして政治がそれにお墨付きを与える」
当時の私は、「何か曖昧で集団的なもの」が「日本」であり、ナショナリズムが沸騰して全体主義的な暴走を始めることを危惧していた。
けれど、右傾化十年目を迎える今の社会を見渡せば、日本社会がいかに壊れているかばかりが目立ち、国に「誇り」を持つどころではない。
今 から思えば、十年前に起こっていたのは、「国権の発揚」だったのだろう。それまでの主権在民を尊重する姿勢をかなぐり捨て、国家が権力をあからさまに振る い始めたのだ。90年代の停滞を一気に変えてくれるかもしれないと期待して、小渕政権や小泉政権に帰依した結果、国民は国の経済に奉仕する奴隷と見なされ た。「日本」に身を委ねれば委ねるほど、隷属させられ、搾り取られ、使えなくなれば捨てられる。
この状況を一気に打開してくれるカリスマを求めるような真似はもうやめにして、来年こそは自分たちで変える意思を持とうではないか。この10年をさらに悪い形で繰り返さないためにも。
(引用ここまで)
星野さんのサイトもありますが、残念ながらマスメディア媒体に発表されたすべての文章が読めるわけではありません。
http://www.hoshinot.jp/
東京新聞に載せられたこれらの貴重な文章ができるだけ多くの人に読まれるように転載させていただきました。
あ、何度でも言うようですが、初めてこのブログを見る方のために...。私は死刑制度にはっきりと反対しています。その理由を知りたい方はこちらの一連の記事を一つ一つ見てくださいね。(私の書いていることに異議があるなら特に...。私がすでに詳しく説明したことを尋ねられても困りますので。)
」
以上です。