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テーマ:醍醐山を愛する会(21)
カテゴリ:醍醐山を愛する会
(五)
明け方近く、谷を揺すぶっていた嵐もようやく峠を越えつつあった。 夜が明け、長者が目を覚ました時には、嵐は嘘のようにおさまっていた。そして庭から女房と若者が、何やら取り交わす明るい声が聞こえてきた。縁に出てみると、嵐で庭一面に散った小枝や木の葉を、二人は掃き集めているのであった。 長者は娘を気遣って、奥座敷へ入ってみると、昨夜は枕から頭をあげられなかった娘が、意外にも布団に座っていて、青白かった頬にほのかに紅がもどっていた。 娘は明け方から急に気分がよくなったと言い、庭から聞こえてくる母親と若者のにぎやかなやりとりをいぶかった。 長者は、昨夜夜中にやってきた旅の若者のことを話すと、娘は笑顔を見せてうなずいた。 (六) 長者の娘が急に快方に向かったという話に、大子の里の人々が長者屋敷に喜び集まった。 若者はその人々に旅の話を聞かせ、それまで幾日も沈みきっていた里人は、その話でさらに活気づいた。 そんな場面を背に外へ出た長者は、庭の西端に立って、大河となって轟々と谷をふるわせ、南へ押し下っている富士川から目を東雲の滝へと上げた。滝は嵐でいつもの数倍にも滝幅を広げ、まぶしく朝日に輝き落ち、木立に隠れた滝壺から湧き上がる水煙を虹の弧が貫いていた。 その日、昼を過ぎ夕方になると、娘の具合は信じられぬほど快復し、母親に手を取られて縁に出て、広い庭の端の木小屋の前で父と楽しげに薪割りをしている若者に、生気を取り戻した美しい目を向けるようになった。 若者はその日の夕餉の折り長者夫婦に、「あと数日、ここに逗留させてはもらえないだろうか。今までの旅で、ここほど人情の厚さが身にしみた所はありません。それに、ここ以上に景色の良い場所に巡り合ったこともないのです。二度とここへ来ることはできぬと思いますので」と言った。 それは、長者夫婦が共に願うところであった。夫婦は互いに口に出さないながら、この若者の不意の訪れが娘の病を、にわかに快方に導いてくれたのに違いない、という深い思いがあった。また、若者に医者を頼んだことや、一日待てといった若者の言葉など、長者夫婦はすっかり忘れていた。 (七) 次の日、縁に座った娘と庭に立った若者とが、気心の知れあった者同士のように、話し合う姿が見られた。若者の旅の話にでもあろうか、娘は時折若者に向けて、優しい笑い声さえあげるのであった。 その翌日に、晩春の日が入日山の稜線に近づく頃、長者原の小路を、若者と娘とが睦まじく、語らいながら散歩する姿を見て、長者夫婦は娘の快復はあと二,三日だろうと喜び合った。 (八) それから三日ほどたった日の朝、旅支度をした若者は、長者夫婦と娘に、「勝手なお願いをして、長々お世話になりましたが、旅の都合でこれ以上お世話になるわけにはいきません。今日は旅立たせていただきます。ご恩は一生忘れは致しません。万が一、ご縁があったらまたお会いしましょう」と挨拶し、娘さんの病は快復したに違いない、と言い添えた。 長者は、若者がいとまの挨拶をし始めるや、娘の顔にただならぬ悲しみの色がはしるのを見た。予期した別れとはいいながら、若者にそう言われて、長者は心の奥底に秘めているものを、若者に語らねばならぬと決心した。 「わが娘と夫婦のちぎりを結び、この家を継いでくれぬか。旅に出るならば約束だけでもして行ってくれぬか」と。 長者の一途な願いを聞き終わった若者は、身勝手ながらお世話になったまま、何のお返しもできず誠に申し訳ないが、ゆえあってこればかりは叶わぬことです。これまでの縁と諦めて、私のことは忘れてください。と言い、別れのしるしにと一首の和歌を詠んだ。 「恋しくば尋ね来て見よ入日山 朝日に映える東雲の滝」 これを聞き終わった長者は、若者が来た夜の夢うつつの出来事を、はっと思い出した。そして長者は、「もしや、あなたは…」と叫びに近い声を発したのであるが、「それ以上は言いなさるな」と、若者は意外に厳しい声で制しさえぎった。長者はその声に、後の言葉を失った。若者は長者と夫婦と娘へ「さらば」の一言を残し、足早く屋敷の庭に出て姿を消した。 深い落胆に、親子三人は後を追う気力もなかった。 7月の入日山(現在の身延山)の夕暮れ ![]() お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2022.02.18 06:00:11
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