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2023年08月31日
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カテゴリ:横川典視
木曜担当のよこてんです。

 さきの8月25日、村上昌幸調教師が亡くなられました。


★今年3月19日、調教師としての地方通算1500勝を達成された際の村上昌幸調教師

 調教師として通算1523勝(地方1522勝・JRA1勝)を挙げた名伯楽というだけでなく、騎手としては通算1783勝、デビュー3年目の1972年から1981年まで10年間に渡って岩手のリーディングに君臨し続けた名騎手でもありました。

 1987年に33歳の若さで引退された村上昌幸騎手ですので自分は残念ながら騎手時代の姿を知りません。恐らくは最近競馬に触れるようになった若いファンの皆さんにとっても村上昌幸騎手の姿は想像が付かないものなのかなと思います。

 そこで今回は、村上昌幸騎手の現役時代を知る関係者に思い出を語っていただく・・・という企画。自分も含めて、それを通して“天才ムラマサ”を知る手がかりになればと思います。

★ ★ ★

 まずはこの方から。村上昌幸騎手の前、1968年から1971年まで平地競走のリーディングジョッキーの座にあった小西重征調教師です。
 小西重征騎手が1970年に達成したシーズン162勝の記録を187勝をもって破ったのがデビュー3年目の村上昌幸騎手でもありました。


『騎手になるべくしてなった人』・・・小西重征調教師

 乗り方が凄く柔らかかったね。馬へのあたりも良かったんだと思う。
“ライバル”とかそんな見方はしていなかった。彼が乗り始めた頃から知っているからね。
 彼のお父さんの厩舎(※村上初男調教師・通算4度のリーディングトレーナーを獲得)の馬には自分や竹田実騎手も乗っていたんだけど、デビューした頃の彼が思うように乗れなかったのか、ムラハツさんが“替わって乗ってくれ”と言ってくることもあった。でも自分は“ちょっと待っていれば大丈夫だから”と言っていた。ちゃんと乗れるようになる子だからと。やっぱりその通りになったね。

 彼はいろいろな要素を、他の競馬場の騎手の乗り方なんかも研究していたんじゃないかと思う。中でも佐々木竹見君の乗り方かな。手綱の持ち方とか、参考にしていたように見えたね。それができる身体を持っていたんだと思う。柔らかい。だからそういうことが自然にできるしあたりも柔らかい。乗っている姿も格好良かった。
 当時岩大の乗馬部の子達が競馬場でアルバイトをしていたんだけど、村上昌幸騎手は人気があったよ。
 その頃は、盛岡で競馬がある時は水沢の人や厩舎も皆盛岡にやってきて調教とかをしていた。彼くらい若い騎手は少なかったからね。彼の上というと自分や桜田の新ちゃん(桜田新一郎騎手。騎手と調教師を兼業)、竹田実さん、菊地寿さんくらいで彼とは年が離れていた。若い騎手自体が珍しいという事もあった。

 レースでは、強引さはなかったね。スルスルッと勝った、という感じだった。

 騎手になるべくしてなった人じゃないかな。身体とかいろいろ、天性のものをもっていたんだと、私は見ていましたね。

★ ★ ★

 続いては石川栄調教師。騎手としては1974年デビュー。年齢としては3つ、デビュー年は4年の違いになりますが、自身のデビュー時にはムラマサは既にずば抜けた存在だったと振り返ります。

「雲の上の人」・・・石川栄調教師

 年は3つ違いでしたが、私がデビューした頃はもう岩手では抜けたジョッキー、スタージョッキーだなと思っていました。

 騎乗しての馬へのあたりが柔らかい。今でいえば武豊騎手に例えられるかな。柔らかい乗り方。何年か一緒に乗ったから見ていたけどフォームが綺麗だった。
 道中は後ろの方にいても3~4コーナーでは常にいい位置に付けている。レース運びもうまかったと思いますね。

 ゴールデンステッキ賞で一緒に乗った時があったんです。昌幸さんとハナ争いした時に無意識に昌幸さんの手をムチで叩いた事があって。それでハナ勝ちした事がありました。
 自分も懸命に追っていたからもちろんわざとじゃない。勝ちたいという一心でね。当時は賞金も高かったですしね。引き上げてきた時に謝りましたね。IBCラジオの加藤さんに今でもよく言われるエピソードです(※1986年のゴールデンステッキ賞。石川栄騎手はヨシカツイリヤ、村上昌幸騎手はマルブツリュウに騎乗して石川栄騎手がハナ差勝ち)。

 最近だと菅原勲騎手がカリスマと言えるんでしょうけども、その頃は、自分は昭和49年から乗っていたけど、あの頃のカリスマというか岩手のスタージョッキーは昌幸さんだったね。当時は騎手が40人くらいいたし、でもレースはフルゲートが8頭だったりレース数自体も少なかった。そんな条件の中でリーディングになるんだからね。

 短く表現すると・・・、そうだね、雲の上の人、だね。乗り役としては抜けていましたね。自分なんかは下手だったからあれだけど、さっきも言ったようにフォームも綺麗だったしレース運びもうまかった。文句の付けようがない騎手だったね。

★ ★ ★

 佐藤浩一調教師は石川栄騎手と同じく1974年の騎手デビュー(※佐藤浩一騎手は春デビュー、石川栄騎手は秋デビュー)。“ポスト・ムラマサ時代”を作った小竹清一騎手とリーディングを争い、通算4度の騎手リーディングに輝いています。

「憧れの存在」・・・佐藤浩一調教師

 憧れの大先輩。自分が昭和49年にデビューした時にはもう岩手のリーディングジョッキーだった。わたしらの同期の小竹がリーディングになるまでは10年ずっとリーディングでね。今の岩手競馬の基礎というか、騎手の待遇とかね、作ってくれた人でもあって。ライバルと言う以上に憧れの存在だったよ、うん。

 自分とは4年くらいしか違わないけど、当時の昌幸さんは凄かったから。その頃はムラマサ、平澤さん(平澤芳三騎手、のち調教師)、小西さんあたりが岩手のトップクラスで、俺らなんかは及ばない位置だったよね。そんな人から「おい、メシ食いに行くか?」とか誘われたりいろいろ連れて回って貰って、距離が凄く縮まったなと感じていたね。
 昔、外国の女性ジョッキーを招待したレースがあって、昌幸さんはアメリカの金髪の騎手とコンビを組んでね。いいなあ、ってうらやましく見ていたりもしたね(笑)。

 昌幸さんとのレースでは忘れる事ができない思い出があってね。みちのく大賞典で一緒に乗っていて、4コーナーで自分が何番手だったかはちょっと思い出せないけど、昌幸さんは後ろから上がってきて、自分の隣に来た時に「ちょっと早すぎたかな~」と声をかけられたわけ。えー、こんな大レースのなかでこんな余裕があるのか?って。
 こっちは真剣になって、勝てないまでも上の方に入りたいと思って乗っているところだからね。“何この人?こんな余裕があるの?”と思うわけよ。

 もうひとつは水沢のアラブ大賞典の時。昌幸さんの馬が本命馬で、3コーナーから先頭に立っていて、自分は後ろから上がって行って昌幸さんの馬に並んだ。そうしたら「おめえちょっと早くないか?」って言われて。3コーナーだよ、レース中の。
 こっちは余裕ないし、いやいやそんな事ないよ、とかなんとか答えたら「じゃあ勝ったら飯食いに連れてけよ~」って。そう走りながら叫ばれた時には、これもレース中にそんな余裕があるのか?だよね。
 その時の結果は、自分が勝って昌幸さんは2着だったかな。ご飯をおごったかどうかは覚えてないけども。
 こっちは必死で余裕もないのに、あっちは普通に声をかけてくる。それだけ余裕があってレースに乗ってるという事なんだろうね。今それだけ余裕を持って乗ってる人がいるのかな?と思うね。その二つは本当に記憶に残っている(※前者は1987年のみちのく大賞典、村上昌幸騎手はマグマカザンで優勝・佐藤浩一騎手はマウタトビクラで7着。後者は同じく1987年のアラブ大賞典で、佐藤浩一騎手はローレルスポットで優勝・村上昌幸騎手はキタノエデンで2着)。

 昌幸さんの乗り方を真似ようとかは思った事がないけれど、昌幸さんには「相手の事を不利にしないと自分は勝てないんだぞ」というような事は、きれい事だけでは勝てないんだという事を教わったように思います。それは、“そういう競馬”もできる人だったという事。綺麗に乗るだけではなく際どい戦いもできる、することもあったね。

 騎手時代はずっとトップを走っていた人であり、岩手の騎手の礎を作った人。トウケイニセイとかメイセイオペラとかが出る前の頃の岩手競馬の“看板”だったね。


★1978年の第6回みちのく大賞典をジムパーナで制したのが村上昌幸騎手にとっての初めての”みちのく”のタイトル。みちのく大賞典はこの時を含めて4勝(『レーシングメモリー岩手競馬25年の記録』P3より引用)

★ ★ ★

 伊藤和騎手は1972年にデビュー。村上昌幸騎手より2年ほど後にデビューしましたが、引退は1985年で逆に2年早く調教師に転身しました。騎手同士というだけでなく調教師と騎手という関係の時期もありました。

「天才。それに尽きる」・・・伊藤和調教師

 やっぱり天才だったね。我々の見えないところで努力していたのかもしれないが、そういう所は見せなかった。馬へのあたりも柔かったしね。我々には分からない勉強をしていたからあれだけの成績を残せたんだろう。

 いつの間にか良いところについているんだよね。どんなレースでも、どんな馬に乗っていてもね。自分は前で競馬をする馬が多かったから後ろでどういうコース取りで来ているかが分からなくてね。あの頃はビデオとかなかなか見れなくてパトロールの映像くらいしか無かった。だから、何が起きたか分からないうちに彼に交わされている、勝たれているという事が多かったね。その辺が天才のカンなんだろうね。だからといって強引でもなかった。その馬にあった乗り方をしていたと思う。

 普段はお酒を飲んでも大騒ぎするような人ではなかったね。その頃の騎手は、自分なんかもそうだったが体重が重い人が多かったから調整ルームに入ってもそうそう飲み食いできないのさ。だからお酒が入った人もおとなしくね。楽しそうにしている昌幸を周りで見ているような感じだったかな。

 “打倒ムラマサ”とか思いも及ばなかった。でもね、お父さん(村上初男調教師)にはみちのくを獲らせて貰ったし(※1979年・スリーパレード)、自分の調教師の1年目には昌幸に乗って貰ってシアンモアを獲って貰ったからね(※1986年・メジロゼウス)。彼との思い出はいろいろあるんだよ。

 やっぱり天才だよね。それに尽きる。もちろん我々に見えないところで努力をしていたんだと思う。それなりの努力をしなければ10年間リーディングを守る事はできないだろうからね。

★ ★ ★


★1984年、騎手として岩手競馬史上初の1500勝を達成(『岩手競馬35周年記念誌』P251より引用)


 佐藤浩一騎手のあとを襲ってリーディングの座に着いた菅原勲騎手。その後通算12度の騎手リーディングは村上昌幸騎手の10度を超えるものでした。そんな菅原勲騎手からは村上昌幸騎手はどんな騎手に見えていたのでしょうか?

「勝ち方を知っている人」・・・菅原勲騎手

 自分がデビューした頃はもうずっとリーディングを獲っていた人だから“凄い人”だと思っていました。
 騎手としては何年もは一緒に乗ってないからね。自分もデビューして間もない、ただ一生懸命やっていた頃で、年も離れていたから“ライバル“という感覚では見ていなかった。やっぱり凄い人。例えて言うならば武豊騎手という感じのタイプだったんじゃないかな。強引に追うとかではなくてすっと乗ってくる感じだったね。
 自分のスタイルって自分では分からないからね。誰かのように乗ろうと思ってもそう簡単にはいかないもの。誰々を参考にして・・・と言うよりは自然とそうなったんだと思う。
 一緒に走っていて、強引さはなくてさらっと、すっと乗ってきて勝つ感じだった。それは勝ち方を知ってる人ってこと。

 自分の頃とは条件も違いますからね。開催日数もレース数も少なかった頃。自分の成績と簡単に比べる事はできないし、そんな中であれだけの成績を残してきたのはやっぱり凄いと思いますね。

★ ★ ★

 最後に騎手ではなく“調教師としてのムラマサ”を一番近くで見続けていた人のお話を聞いてみました。坂口裕一騎手は2003年のデビューから先日の解散までずっと厩舎の主戦として戦ってきました。坂口裕一騎手から見た村上昌幸調教師はどんな人だったのでしょうか。

「何に関しても余裕がある人でした」・・・坂口裕一騎手

 デビューした頃は毎レースをビデオに撮ってもらって、それを見ながら調教師がレース解説・・・を2,3年やっていましたね。その頃は自分も若かったですし“なんで毎日こんなに色々言われなきゃならないんだ”と思うばかりでした。
 自分は岩手出身じゃないから、南関東の古い人は見ていて分かっていたんですけども(※坂口裕一騎手のお父さんは川崎競馬の厩務員で自身も川崎の厩舎育ち)「ムラマサ」という存在の凄さが分からなくて。みんなは知っているわけですけどもね。厳しいのは親心だったんでしょうけども自分はしごかれてるとしか思えなかったですね。
 ですが、今思えば自分を思ってやってくれてたんだなって。他の厩舎の馬のレースでも欠かさず撮って、毎レース自分の事を見ていてくれたんだなと。

 褒められる事はあまりなかったですけど、“よくやった”とか言葉をかけて貰えるようになっていった。先生だったら、自分だったらこう乗ったとか、調教師としてはいろいろ思うところがあったんでしょうし、そういうのもあってあまり褒めて貰えなかったのかなと思ったりします。

 騎手時代には10年間リーディングを守ってきて、なって当然と言われていた時期もあって、だからか分からないですけども、切り替えが早かったですね。大きいレースを勝ったり年度代表馬を獲ったりしてもいつまでも喜んでいない。天狗にならない。現役の頃に修羅場をくぐってきたからこその切り替え、気持ちの余裕だったのかもしれないですね。

 当時を知っている人、年配の馬主さんとかには「何年もリーディングを獲るんだからプライドが高い人なんだろう」というようなイメージがあって話しかけづらい・・・というような意識があったと聞いたんですけど、実際は全然そういう感じはなくて。周りが作っているイメージとは違うんだけどな、と自分は思っていましたね。

 実習の頃から言えば出会って22年。振り返れば22年ですけども、あっという間でしたね。ましてや病気が発覚してからの1年なんか本当にあっという間で。最近は調教師が厩舎に来られている時はできるだけ会って話をするようにしていました。今にして思えば、自分ももっと先々の事を考えて、もっといろいろな話をしていれば良かった。

 何年目ぐらいですかねえ。7,8年目くらいですか、胸椎を骨折して長期離脱した時に「いて貰わないと困るから怪我には気を付けて」という言葉をかけて貰って。そのころからですね、レースや調教で厩舎の馬を任せて貰えるようになって。
 若い頃は厳しい人だとしか思ってなかったですけども、今になってみればとても尊敬できる素晴らしい方でした。

★ ★ ★




★1500勝達成時、“ムラマサ勝負服”を作ってきた坂口裕一騎手を見て「俺のはもっと線が太かったぞ」と言いながらも嬉しそうな村上昌幸調教師なのでした

 最初に書いたように私もムラマサ騎手の現役時代を知らなくて、ましてその凄さとなると噂しか知らないですから、自分の認識としては坂口裕一騎手と同じような感じなんですよね。自分なんかにもちょっと冗談交じりに声をかけてくれる、そんな人というイメージで。
 なので、かつての同時代を戦った人たちが、それもそれぞれの時代のトップジョッキーだった人たちをして“ムラマサは凄かった、天才だった”と口を揃えて言うのには、話を聞いていた自分にとって驚きでした。そんなに凄い人だったのか、と。




★管理するナムラタイタンが2014年度の年度代表馬に選ばれた際の表彰式にて。インタビューに答える村上昌幸調教師

 平成に入る前に騎手を引退した村上昌幸騎手でしたので映像としてすぐ見る事ができるレースは多くないようですが、ネットを探すと当時の大レースの映像がいくつか見つかります。伝説の“旧盛岡・直線大外一気”のレースもあるようですので、皆さんもぜひ探してみてください。

 春に1500勝を達成された頃は割とお元気そうにも見えたのですが、その後はあまり良くない時期が続いたようで、臨場される事もなくなりました。坂口騎手によれば最後まで厩舎の行く末に気を配って、その道筋を定めてから旅立たれたのだそうです。

 “天才ムラマサ”のご冥福をお祈りいたします。





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最終更新日  2023年09月01日 11時52分01秒



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