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2023年09月21日
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カテゴリ:横川典視
木曜担当のよこてんです。

 いよいよ迫ってきました“ラスト”ダービーグランプリ。今回と次回、もしかしたらその次の回も、ダービーグランプリのお話をしていきたいと思います。無謀にも前後編?の予定。




 まず今回は『ダービーグランプリの時代』と銘打ってダーグラのこれまでを遡ってみるというお題。今年で36回にもなるだけに全てについては触れる事ができませんが・・・というところをあらかじめお断りしつつ話を始めましょう。


■「レベルの違いを見せつけられた」第1回ダービーGP。しかしそれは次世代の糧に

 ダービーグランプリが設立されたのは1986(昭和61)年のこと。それまでにもエリア交流の“ダービー”は存在していて、例えば東北三県交流の『東北優駿(※新潟県競馬で実施する場合のみ東北ダービー)』は第1回が1978年の上山で行われていますし、東海エリアでの『東海ダービー』は1971年に、北関東エリアの『北関東ダービー』は1973年に設立されていますが全国の地方競馬の・・・となるとこのダービーグランプリが初。


★第1回ダービーグランプリ開催を告知する新聞広告。1986年はこのダービーGPを含む12月6日・7日・8日が最終開催で、ダービーGPが「シーズンラストを飾る一戦」の位置づけでした(『岩手日報1986年12月5日朝刊より引用)



★こちらは第1回のポスター。“ダーグラは金色基調”は初期からできていた模様。上の新聞広告は、二つのポスターを足して二で割ったような図案というのも興味深いですね(『岩手県競馬組合30周年記念誌』より引用)






★記事上は第1回ダービーグランプリ開催告知の新聞広告(『岩手日報1986年12月5日朝刊より引用)より。同下はシーズン最終開催告知の新聞広告(『岩手日報1986年11月28日朝刊より引用)から。東北3県への実況中継番組だけでなく関東でも放送、そしてダービーGP関係の事前番組が2つも!いかに力が入っていたかが分かりますね。


 その栄えある第1回は北海道・グリーンタイセイ、足利・サラノオー、新潟・ダイスプリンター、大井・トミアルコ、船橋・ダイナシーズン、笠松・タカシマリーガルの遠征馬6頭を地元のノーザントライ・イワタケテスコ・トウケイフリート・ジヨージアセイコウが迎え撃つ形の10頭の戦いでした。優勝したのはトミアルコ。牝馬が“地方3歳の頂点”に立ちました。



★こちらは岩手日報さんの予想。本命はダイスプリンターですね。実際の人気もこの印のような感じでした(『岩手日報』1986年12月7日朝刊より引用)


 のちのち「レベルの違いを見せつけられた」という言われ方をする第1回のダービーGPなのですが、単に南関東の馬が勝ったという結果だけでなく、地元のトウケイフリートは不来方賞の他スプリングカップやサマーカップを、ジヨージアセイコウはダイヤモンドカップ(※当時はダービーGPの前哨戦的位置)を、イワタケテスコはやまびこ賞を、ノーザントライもビューチフル・ドリーマーカップ(※当時はOP牝馬の特別戦。なお表記は当時に習います)で古馬に勝っている馬。

 それらその年の岩手の世代トップクラスが蹴散らされただけでなく遙か彼方にいる(2着サラノオーと3着ダイナシーズンの間は7馬身差。岩手最先着の5着ノーザントライは3着からさらに1馬身強の差)。それも牝馬。
 いや、トミアルコにしてもその年の大井の世代最強馬ハナキオーと互角に戦った事もある強豪ですからね。この馬の走りはそのまま南関クラシック路線のトップクラスの内容と考えていいもの。

 岩手の世代トップクラスだけでなく、その岩手の馬を東北優駿で破っている新潟のダイスプリンターも、3着ダイナシーズンに食い下がったとは言え優勝争いは7馬身もの前で繰り広げられていたわけで。岩手との差・東北との差を“見せつけられた感”はもの凄く強烈だったのだと想像します。

 ダービーGPの2年後に設立された南部杯、当時は「北日本マイルチャンピオンシップ南部杯」は、こちらも当初は他地区馬に蹂躙されるような結果でした。
 地元馬がダービーGPを制したのは第4回、スイフトセイダイ。南部杯は第3回のグレートホープ。
 なし崩しに南部杯も織り交ぜた話になってしまいますが、どちらも初期はせっかくの高額賞金を他地区馬に持って行かれる結果になって、こうしたレース設定に対する批判というか不満もあっただろうと想像します。
 しかし当時は、東北三県の中であっても岩手の馬が強いとは見られていなかった時代。強い馬を出して岩手競馬を底上げしていこう、盛り上げていこうという志が、当初の苦しい敗戦にも耐えさせたのだろうとも思いますね。

 奇しくもスイフトセイダイ・グレートホープはのちに「SG時代」と呼ばれる一進一退の攻防を繰り広げる好敵手となり、そして「TM時代」、トウケイニセイ・モリユウプリンスの時代へ、さらにはメイセイオペラ・トーホウエンペラーを送り出して、岩手競馬の全盛期と呼べる時期へと繋がっていきました。

 第1回のダービーGPは厳しい結果に終わったものの、それは間違いなく次世代の糧になっていたはずです。


★OROパーク盛岡競馬場のスタンド2階では「ダービーGPポスター展」開催中。10月1日までです。当日お越しの際はぜひお立ち寄りを


■JRA交流時代のダービーグランプリ。岩手の馬も健闘していた

 第1回から第10回までは「地方競馬のみ」のレースだったダービーGPは、JRA・地方交流時代の幕開けに伴って、また新盛岡競馬場・OROパーク開場にもともなって、1996年からはJRA・地方競馬交流の4歳(旧年齢)重賞となり同時に開催場も盛岡に移る事になりました。

 1995年のダービーGPは、ある意味今年の南関クラシック路線のような「地方馬だけのダービーGPはこれが最後なのだ」という感慨を抱きながら見た記憶があります。
 同時に新しい盛岡競馬場での、JRA馬との戦いがどんなものになるのだろうか・・・という期待もありましたね。

 1996年は皐月賞馬イシノサンデーの参戦と優勝で盛り上がったものの地方勢は岩手のウエストサンボーイ4着が最高。翌年は、メイセイオペラが参戦しましたがご存じのように骨折の影響で力を出せず・・・で悔しい思いをするばかりでした。

 1998年は、これも有名なエピソードになっていますよね。降雪延期。ウイングアローが三冠馬になり損ねたのにはこの降雪延期・開催場変更の影響が間違いなくあったでしょう。
 また笠松のハカタビッグワンや高知のカイヨウジパングは延期によって短期間に二度の長距離輸送をするはめに。カイヨウジパングはその年の高知の三冠馬、ハカタビッグワンはのちにグレードレースを2勝する実力馬。万全の状態で戦うところを見たかったとも思います。


★98年の11月下旬は雪が多かったような記憶。取り止めになるダービーGP前日の北上川大賞典も積もった雪を背景に行われておりました



★たいへん私事の写真ですが、水沢でのダービーGP後、水沢江刺駅でマイケル・ロバーツ騎手とであったもので・・・。

 2006年まで11年続いたJRA・地方交流時代、結果的には岩手のみならず地方馬の優勝はありませんでしたが、レギュラーメンバー、ゴールドアリュール、ユートピア、カネヒキリといった後々古馬G1を制する馬たちがここから飛躍していきました。
 後に種牡馬としても、カネヒキリはトロヴァオ・スーパーステションでダービーGPを“親子制覇”。ゴールドアリュールはエスポワールシチー、オーロマイスター、コパノリッキー、サンライズノヴァら、盛岡のダートG1級レースを制する仔を送り出しています。ダービーGPは日本競馬界の血脈の中にもしっかりとした足跡を残している・・・と言っていいのではないでしょうか。




★装鞍する前のカネヒキリ。風格がありますなあ。3歳馬とは思えない(2005年)

 ちょっと特殊な位置にあるのが2007年です。この年も猛暑の夏でしたけども、加えて馬インフルエンザが全国で猛威を振るいました。
 特に8月後半からは顕著で、少頭数になるだけでなく当日競走除外が頻発、名古屋競馬のように防疫徹底のために開催を取り止める場もあるほど。

 この時期のグレードレースは8月14日の佐賀・サマーチャンピオン、15日の水沢・クラスターカップまでは通常通り行われたものの、16日の門別・ブリーダーズゴールドカップはJRA馬の移動制限がかかってJRA代表馬が全て当日競走除外、地方馬のみのレースに。
 そしてその移動制限の影響は9月も続き盛岡・ダービーGP、船橋・日本テレビ盃がグレードを外した地方重賞の形で行われる事になったのでした。


★2007年のダービーグランプリは雨の中。優勝はハルサンヒコ


★村上忍騎手には珍しい派手なガッツポーズ。自分としては、土砂降りの雨の中、当時のカメラの性能で良くピントが合ったなと思った一枚

 2007年をもってグレード返上・レース休止という予定だっただけにこの年の“最後になるはずだったダービーGP”は交流JpnIとして見たかったですね。この年の優勝馬はハルサンヒコ。土砂降りの雨の中でのガッツポーズが印象的でした。

 2006年のダービーGPでサイレントエクセルに騎乗していた板垣吉則調教師にお話を伺ってみました。結果は3着でも勝ち馬からクビ+1馬身半、地方馬としては“最も勝利に近かった馬”がサイレントエクセルでした。


★板垣吉則騎手とサイレントエクセル(写真は2007年のビューチフルドリーマーカップ)

「わりと楽に3番手くらいに付ける事ができて、ペースにも楽について行けてね。まあそうは言っても3コーナーくらいで離されていくんだろうな・・・と思ってたら直線も手応えが良くて。最後は地力の差で少し離されたけどね。
 当時のダービーGPは中央との交流だったから、“勝ちたい”とか“勝てそう”とかまでは思えなかった。むしろ諦めムードの方が強かったと思うね。岩手の、昔の強い頃の馬なら太刀打ちできたかもしれないけども。中央の馬はそれくらい強く感じていたね(板垣吉則調教師)」

 まあそうですねえ。例えば2000年優勝のレギュラーメンバーは「大差」、翌年のムガムチュウが「9馬身」、さらに翌年のゴールドアリュールは「10馬身」ですからね・・・。

 とはいえ、JRA交流時代のダービーGPでの地方馬最先着は1997年フドオーと2000年ミツアキサイレンスの2着ですが、岩手勢もトニージェント・バンケーティング・サイレントエクセルの3着を始め掲示板圏内の結果が複数ありました。“地元の意地”はしっかり見せていたんじゃないかと思います。

 次回は2010年の“復活”以降のお話を。






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最終更新日  2023年09月28日 16時33分00秒



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