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21日に安倍首相が靖国神社に供物「真榊」を奉納した。同日、東京の市民270人余りが首相の靖国参拝を違憲と認めて差し止めるよう求め、東京地裁に提訴した。
日本のトップが靖国参拝をする。この異常性は、軍国主義・皇国史観そのものではないか、政治家は歴史を物語としてではなく、科学的結末として解釈しなければならない。 靖国問題は国の恥である。政治家に私的事情は有ってはならない。政教分離原則に抵触する。皇国史観について言えば、無知は罪悪であり、犯罪である。 当時、日本兵が戦友と別れる際、「靖国で会おう」と誓ったことから、靖国神社は日本兵の心の拠り所としてのシンボルの一つであった。常識的に考えれば、全く自虐的である。自分は死ぬから、後は宜しく頼むと言っているようなものである。しかし、残された者が皆その責任をすべて果たしてくれるとは限らない。 他方、戦争被害を受けたという中国や韓国は、靖国神社にA級戦犯が合祀されていることを理由として、政治家による参拝が行われる度に批判反発している。人で有るから恨みは分かるが、恨みや怒りは、きっかけが無ければ、湧いてこないもの。 なぜ本邦の首相は難しいときに靖国参拝をするのだろう?いっそ自民党と遺族会の関係を断ち切る事が、将来において大事ではないかと考える。 皇国史観について 日本で起きる一連の出来事は「皇国史観」台頭の具体的な現れと言える。第2次大戦時の「皇国史観」は日本の天皇、国土、民族、宗教を世界で最も優れているとし、万世一系の天皇は「神」であり、日本は天皇を中心とする神の国であり、天皇の名の下で世界を統一すると考え、明治維新以降に日本の発動した対外侵略戦争を「自存自衛」と「アジア解放」の「正義の挙」、歴史の使命を達成するために行った聖戦と言い、侵略戦争に命をかけることを「天皇に忠誠を尽くし」「国のために命を捧げる」ことだと見なした。 若い世代の多くは日本がかつて他国に対して犯した軍国主義による侵略および植民地支配の罪を知らない。絶対繰り返してはいけない事実が有ったことも、義務教育では学習しない。国際化していく世界の中で、自国の恥を知らないまま大人になる。そして初めて国外に出たとき無知を知らされる。 戦後民主主義の流れの中で、皇国史観はなりを潜めたかのようだった。しかし、今回の靖国参拝は、過去の軍国主義に戻るという懸念を抱かせる。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2014年04月24日 23時33分37秒
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