文部科学省は8日、明治23(1890)年発布の「教育ニ関スル勅語」(教育勅語)の原本とされる文書を、52年ぶりに確認したことを明らかにした。
大正12(1923)年の関東大震災で文部省(当時)の庁舎が焼けた際、強い熱を受けて変色するなど損傷が激しく、明治天皇の御名御璽(ぎょめいぎょじ)のある後半部分が開けない状態になっている。歴史的な資料として国立公文書館に移管し、修復のうえ公開される見通しだ。
内容については、万国共通の普遍的な価値が示されているものの、戦後は連合国軍総司令部(GHQ)の圧力などで学校現場から排除された。理由は皇国史観に由来するからです。
前略 父母に考を尽くし、兄弟は仲よくし、夫婦は協調し、友達は信じ合い、人にはうやうやしく、自分には慎み深く、誰彼となくひろく人々を愛し、学問を修め、仕事を習い、知能をのばし、徳行・器量をみがき、進んで公共の利益をひろめ、世の中の務めにはげみ、常に憲法を重んじ、法律に従い、一旦国家危急の時には忠義と勇気をもって国家のために働き 後略
教育勅語は天皇に否定的なGHQ民政局の圧力で排除され、軍国主義教育の象徴とみられるようになったが、戦後はその内容についてほとんど検証されることはなかった。
教育勅語は先に述べた「ごもっともで立派」な部分は、皇祖天照大神と歴代の天皇が残された教えで、その御徳は深く厚く、臣民もよく忠孝に務め美徳とします。
つまり父母への「考」と天皇と「臣民」の「忠」は一体の発想であり、それが神話の存在である「天照大神」を祖先とする天皇の教えだったと読むしかなく「万世一系」(永久に続く家柄)の皇室に統合される、いわゆる皇国史観そのものという批判があります。
この批判は神話を事実のように扱う非科学性や、これが狂信的に強調された先の大戦の特に末期の状況が軍国主義のシンボルとみなされる為である。