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菅原道真と地震
菅原道真は870年に当時の官吏登用試験の方略試を受験しました。この年は、東日本大震災と類似した巨大地震の869年貞観地震が起きた翌年にあたります。このためか、試験には、「明氏族」「弁地震」の2問が出ました。氏族を明らかにしなさい、地震について論じなさい、の2問です。地震の問いに対して、道真は、「かつて中国では、張衡が作った地動儀で、遠く離れた地震を検知した」と引用しながら回答し、難関の方略試に合格しました。 この時期は、大地震が続いていた時代です。863年に越中・越後の地震、864年に富士山や阿蘇山の噴火、868年に山崎断層が活動した播磨・山城の地震、そして貞観地震が起きました。道真が官吏になった後にも、878年に関東地震の疑いのある相模・武蔵の地震、880年に出雲の地震、881年に京都の地震、886年に安房(千葉)の地震、さらに、887年には南海トラフ地震の仁和地震が発生しました。道真は、901年に大宰府に左遷されるまでの間、度重なる災害の中、国政の重責を担っていました。まさに、道真と地震は切っても切れない縁があるようです。 張衡と大宰府の縁 帰田賦に「仲春令月、時和気清」と詠んだ張衡は稀代の天才で、政治家に加え、科学者、文学者の顔も持っていました。科学者としては候風地動儀という世界初の地震計や、天体測定の渾天儀を発明し、「霊憲」という天文書も著したそうです。また、文学者としては、「西京賦」「東京賦」「思玄賦」「南都賦」「思玄賦」「帰田賦」などの詩賦を著しました。詩賦とは中国の韻文で、一定の韻律をもち、形式の整った文章のことだそうです。 科学者としての張衡の地動儀を引用した地震を弁じたのは大宰府に左遷され、太宰府天満宮の祭神になった菅原道真、文学者としての張衡の帰田賦の詩「仲春令月、時和気清」を参考にしたと言われるのは大宰帥だった旅人が催した宴での「初春令月、気淑風和」と、なんとも不思議な大宰府、道真、旅人、張衡、地震、令和の縁です。 張衡の地動儀 地動儀とは、壺のような形をしていて壺の外側に球を口にくわえた龍が8つ取り付けられ、壺の周囲に口を開けたカエルが8匹配されたものです。壺の中に柱が立っていて、小さな地震の揺れでも揺れを増幅します。この柱が倒れて龍の口に通した棒を押し、壺の外にある龍の口が開き、龍がくわえている玉がカエルの口に落ちて大きな音を出し、地震を知らせます。龍とカエルは八方にあるので、最初のゆれの方向がわかり、地震の起きた方向を知ります。132年に初めて制作され、138年に洛陽に置いてあった候風地動儀の玉がカエルの口に落ちて音が鳴ったそうです。後日、1000kmも離れた甘粛省朧西の地震だったことが分かり、話題になったと言われています。 「和」と南海トラフ地震 日本の元号は、大化から令和まで、全部で248個あるそうです。そこに使われた漢字は「永」で29回、「元」「天」が27回、「治」が21回、「応」が20回、「和」は6番目に多くて19回、「令」は初めて使われたようです。実は、「和」が付く元号のうち、「仁和」「康和」「昭和」には南海トラフ地震が発生しています。南海トラフ地震が確実視されている白鳳、仁和、永長・康和、正平・康安、明応、宝永、安政、昭和の地震で、「和」の漢字が目立ちます。近い将来の南海トラフ地震発生が確実視されている中、「和」が付く令和の時代の地震の起き方が少し気になります。 全文引用 候風地動儀の原理は慣性の法則なのだが、再現するには大掛かりな鋳造設備が必要になる。 しかし、要の共振球は鉄球で替えられるし、筐体は樹脂でもよい。 仕組として慣性力から重力加速度に変換されたたもので、自然エネルギーそのもの 当然ながら本物が存在しなくても同じような構造であれば、必ず地震発生前にうごく。 最初に横方向の微振動さえあれば、共振球の重量や大きさに関係なく機能すると考えられる。 昔の人は大袈裟なものが好きだったのだろう。さて、この仕組みがガス器具の感震機構に使われています。加速度センサー部品として携帯やロケットに組み込まれている。残るは地震予知器だけ・不思議な事に、絶対的な地震国であり、大きな被害が想定されるも誰も作ろうとしない。但し之には欠点もある・前兆微振動が結果的に地震につながるかという問題で、それが地質に吸収されてしまうものなら地震は起きない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2019年04月11日 11時56分55秒
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