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患者さんに病状の説明をする機会は多い。そんな中、少しややこしい検査や処置が必要になればその分説明時間を多く割く。時間に関してはどのドクターでもだいたい同じだろうが、説明の仕方というのはドクターによって全く異なるものと思っていい。
たとえば「少なくない」と「多い」を挙げてみよう。一方は二重否定でやんわりと肯定するのに対しもう一方は肯定的な書き方だ。検査や処方の副作用一つをとってみても「このクスリは副作用が少なくありません」といわれるのと「このクスリは副作用が多いです」、内容はほぼ同じでも相手に与える印象は格段に違うはずだ。 文面を棒読みするわけではなく、かといって適当に話を流してもいけない。いわゆる「話の芯」に沿って色々と枝葉をつけながら必要かつ十分に説明すべきものなのだが、実際にはそんな時間はない。細かなところは端折ってしまうことも多い。さらに説明を聞く側のインテリジェンスも重要だ。インテリジェンスレベルが高い患者さんはそれなりに高度な説明を要求されるし、逆であれば何とかわかってもらえるよう説明しなければいけない。必要なのは「患者さんにとって」理解できたかどうかであり、型どおりの説明だけではどうしようもないことは明白だ。 僕が診療する中、他のドクターの説明を聞く機会はそう滅多にあるものではない。逆に僕の説明を他のドクターが聞くこともない。これは医者同士の不文律みたいなもので、診療する側される側双方の合意が得やすい反面、客観的かつ公平な機会を損なってしまっている。こうした説明を含め情報をみんなで共有すればいい、といわれる方もおられるだろうが「船頭多くして船山に上る」ということわざ通り、あまりにも色々な意見が入り組んでしまっては治療の方向性が見いだせない。 結局は患者さんの判断が最優先されるわけだから、患者さんが「これでいい」と納得してもらえればその過程は傍目から見て多少おかしくても、それが正しいように思う。治療を受ける側がどうすれば治療や検査に納得してもらえるのか、それを考えるのは治療する側である。しかしお互いの組み合わせが千差万別である以上、臨機応変に対応していかなければどうしようもない。通り一遍の説明だけを済ませて満足している若いドクターをたまに見かけるのだが、やはり心許ない。 「多い」「少なくない」、そんな些細な言葉でもその場の雰囲気や患者さんによって使い分けられれば最高だと思う。相手に応じて言葉や内容を変えるだけの語彙力や態度、それこそが機智であり相手を納得させ、安心させられる重要なファクターの一つだと思うのだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2005.01.25 14:05:30
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