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病院へやってくる患者さんは当然何らかの病気や怪我を有している。しかし勤務医をしている以上、最後までその患者さんと付き合いきるという事例は外来では滅多にお目にかかれない。
もちろん、感冒や一時的な怪我などならその患者さんが治ったことを確認することもできるが、これから先、一生付き合っていかなければならないような病気を診るとき、治る・治らないにせよ最後まで診続けることは不可能に近い。 従って勤務医がその患者さんの治療を終えるときは以下の三つしかない。 1.患者さんが来なくなった 2.自分が転勤・異動することになった 3.患者さんが亡くなった 患者さんが来なくなったというのは結構多い。これは医者と患者の相性や、病院との相性などもあるだろうが、それ以外にも自己判断で良くなったと勘違いしていたり、とか、怪しげな新興宗教へかっさらわれていったとか、患者さん自身が突然転居したとか……憶測の域を出ないのだけれども、様々な理由が存在していることは間違いない。こうした場合は残念ながら追跡がほとんど不可能なので放置するしかないが、奥歯に物が挟まったような何ともいえない後味の悪さを覚える。 次に自分が転勤することになっただが、それなりに大きな病院へ通院したことがある人なら誰でもお目にかかったことがあるだろう。医局や病院の方針により微妙に異なるけれども4月と10月は人事異動が多く、外来勤務や病棟担当医の変更など病院の玄関に貼り付けてあるような担当表が塗り替えられるのは、病院の風物詩といった感さえ受ける。転勤も自分で転職や開業してしまう先生もいれば、医局から異動を命じられ渋々転勤したり、逆にやっと転勤させてくれたかという安堵の面持ちで転勤したり……いずれにせよ「病院」に通っている患者さんにしてみれば主治医がいなくなってしまうわけだから大変だ。ただ、医者の立場からいわせてもらうと後続のDr.を指名できる訳なので先に挙げた理由よりはまだ安心できる感がある。 最後の患者さんが亡くなってしまった場合だが、このケースがもっとも心に重くのしかかる。自分の選んだ治療は間違いがなかったのか、最善は尽くせたのか、本当に抗いがたい病気であったのか……そうした自問自答を繰り返すことになる。いくら自問自答してみても答えは決して出ることはない。なぜなら、いくら答えを求めてみても当の本人がこの世に存在しない以上、検証することが不可能だからだ。過去の反省を現在・未来に生かすことはできたとしても、その患者さんが再び生き返ってくるわけではない。そういった意味でも後戻りできない治療の終焉というのは先の二者に比べとてつもなく重く響く。 治療が終わらない医療なんて医療ではないのかもしれない。しかしそれでも目の前に病気がある以上、何とかして抗ってみる努力はしてみたいとも思う。自分がこれから先どのような病気や患者さんと向き合うのかは何もわからないが、仕事を続けることでしかこうした問題を考えられないのならば、その仕事が僕の宿命ということか……。 徳川家康が遺訓とした 『人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。いそぐべからず、不自由を常と思えば不足なし、こころに望みおこらば困窮したる時を思い出すべし。堪忍は無事長久の基、いかりは敵とおもえ、勝つ事ばかり知りて、まくること知らざれば害その身にいたる。おのれを責めて人をせむるな、及ばざるは過ぎたるよりまされり』 を思い出し、しばし感慨にふけってみる。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2005.08.22 14:36:21
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