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カテゴリ:浮説 徳川御用金、伊賀の蜜謀
浮説 伊賀の蜜謀消えた徳川御用金 5 御用金を盗んだのは誰だ? 小栗上野介忠順の行列が江戸城を下り、上州上野国権田村へ到着した数日後であった。 西郷隆盛と勝海舟の間で、江戸城無血開城が決まったのだった。官軍による江戸城総攻撃は中止され、江戸が火の海になることは避けられたのだった。 江戸城を手にいれた新政府軍は、少なくとも300万両を超える徳川の御用金を新政府樹立のために使うことを算盤に組み込んでいた。 京から江戸まで戦い続けてきた官軍の懐の金は乏しくなっており、今後の戦いのためにも、徳川の御用金はなければならなった金であった。 江戸城に入った官軍は、蔵の扉を次々と開け、そこから鉄砲など武器弾薬多数を発見した。 だが、肝心の「徳川幕府御用金」があるはずの金蔵は、必死の捜索にもかかわらずもぬけの殻であった。どこを探しても金銀は見つからなったのである。 官軍は金蔵番の役人25人を厳しく尋問したが、誰ひとりとして御用金の行方を白状しなかったため全員処罰された。 悔しがる新政府軍と西郷隆盛だが、徳川慶喜は既に上野寛永寺で恭順の意を示し謹慎していたので御用金に手を付けられる筈もなかった。 官軍側は、西郷隆盛との間で江戸城を引き渡すと決めた勝海舟勝を問い詰めた。 「勝海舟殿、まさか、御金蔵は空で通そうというお考えではあるまいな。さような馬鹿げたことが通用するはずがない。さあ、中にあったものをどこへやったか、返答をいただきたい」 勝海舟は、 「さて、それがしもないとは思わぬが、金の事は一切、勘定奉行の小栗上野介殿が取り仕切っておられたので、小栗殿に聞かれよ」 と答え、疑われた勝海舟も躍起になって、御用金の行方を捜すことになったのだった。 御用金はいったいどこへ消えたのだろうか?江戸幕府は度重なる財政危機に見舞われ、そのつど改革が行われるなど、非常に厳しい財政状況で御用金などなかったのではないかという説もあったが、一枚の小判もないというのはいかにも不自然であった。 官軍側は御用金の行方について、あらゆる可能性を否定しなかった。 大奥の女たちが夜陰に紛れて平河門から脱出した、その時に持ち出したのか? 小栗とつながりの深かったフランス船に積み込んだのか? 江戸城警護の伊賀者が持ち去ったか? さらには、官軍側で最初に江戸城に入った薩摩藩の仕業か? だが、やはり、疑いの本命は当然のことながら、江戸幕府最後の勘定奉行であったの小栗上野介忠順に向けられていたのである。 つづく 朽木一空
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最終更新日
2021年12月19日 10時30分07秒
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