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カテゴリ:浮説 徳川御用金、伊賀の蜜謀
浮説 伊賀の蜜謀消えた徳川御用金 6 ![]() 仕組まれた襲撃 上州上野国(こうずけのくに)の山深い権田村に着いた小栗忠順一行は 権田村にある東禅寺で借り住まいをし、閑居して時世の成り行きを確かめようという心境であった。 権田村の名主や庄屋にも挨拶をし、村人にも行き渡るように、多額の土産と金銭を渡した。そして、見晴らしのいい、観音山に新しい屋敷を新築する工事にも着手したのであった。 屋敷建設の目途が立つと、江戸の本所津軽藩の下屋敷に身を隠していた江戸留守居役に、残された荷物(御用金)を権田村に運ぶよう指令を出した。 無論、残された小栗忠順の家臣の者だけでは運ぶことができず、伊賀の黒破多呂兵衛に警護の依頼をすることになった。 伊賀忍鴉組の頭目黒破多呂兵衛の蜜謀が本格的に動かしだしたのはこの時からである。 黒破多呂兵衛はすでに徳川を見切っていた。否、小栗忠順でさえ、主君徳川慶喜が新政府軍に恭順し、上野寛永寺に籠っていては最早徳川再興の夢など無きに等しいとわかっていたはずであっが、まだ一縷の望みを捨てきれずにいたのだった。 本所津軽越中の守の下屋敷を出た荷物を運ぶ行列は、旗本家の移住を装い、それなりの家財も運ぶ大掛かりのであり、荷車10台、人足に担がせた長持30個の大行列になった。 無論、この荷物の中には300万両の小判が隠されていて、行列は伊賀忍鴉組によって衛られていた。 この頃は、江戸から藩に帰郷する大名が多く、街道の大行列も特段珍しくもなく、不審に思われることもなく中山道を下っていった。 行列は、順調に板橋、桶川、鴻巣を過ぎ、中山道は山間に差し掛かっていた。 伊賀の江戸の頭目、 黒破多呂兵衛の蜜謀の命を受けた下忍の 左玄太は浪人や無宿者、博徒それに百姓くずれの者、雑多な三十人ほどをの男を集め、街道を見下ろす山中に身を隠していた。 わざとらしく身なりを崩し、山賊を思わせるような形をさせていた。 左玄太の合図で山中から行列に向けて煙玉が投げられ、辺り一面煙に巻かれ視界が不良になった。本来は遁走用に使われる忍法煙玉の術である。 ~わあああああ~という掛け声とともに、 左玄太の雇った雑多な偽山賊が、槍や刀を持ち、声を上げながら、雪崩を打って行列の真ん中に割って入ってきた。行列を護衛していた伊賀の忍鴉組の衆が、二分されたっ行列の前方に対し、 ~逃げろ、後ろをかまうな、まっしぐらに逃げよ!~と指図した。 行列は、北へ向かって一目散に逃げだした。その、行列の尻を叩くかのように、 山賊たちは追いかけていった。だが、脅すだけで手は出さない、 二分され、後方に残された行列の半分は街道の煙玉が消えると跡形もなく姿を消していた。中山道の下のを流れる利根川の岸にあらかじめ汚穢船5隻が繋がれており、行列の荷物はすべて汚穢船に運び込まれていたのだ。 行列の人足たちは、皆当て身を喰らって失神し、街道脇の笹の葉の陰に転がされていて、目を覚ますと、一人当たり三両の人数分の小判が置かれてあった。 煙玉を吸い、当身をくらって、人足たちは何がどうなったのかわからなかったのである。 黒破多呂兵衛の仕掛けた絶妙な罠であった。 長持の行列の前方には家具や、衣類、書物、などが多く、後方の長持には千両箱が多かったのだ。前方の行列を追いかけていった伊賀忍鴉組の左玄太率いる偽物の山賊は、誰も傷つけることもなく、ただ、わあわあと、行列を追いかけただけで、一里も行くと、 ~もう、よいだろう、ご苦労であった、~ と、偽山賊に一人当たり三両の金を渡した。 ~またこの仕事したくなったら、上州の権田村で待っててくれ~ そう言うと、左玄太は黒破多呂兵衛の次の戦術のために街道を急ぎ足で去っていった。 御用金300万両を積んだ汚穢船5隻は糠味噌臭い手拭いで頬被りをした伊賀の忍鴉組の手によって、なに事もなかったように利根川をゆっくりと下っていった。 つづく 朽木一空
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最終更新日
2021年12月21日 10時30分06秒
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