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カテゴリ:橋番、木戸番、自身番、辻番噺
辻番所 2 危ねえ辻番所 江戸の町は武家地が六割、町人地は二割、寺神地が二割であった。 町人地の取り締まりは町奉行で、寺社地は寺社奉行が受け持っていた。 武士と町人の住む場所は明確に区切られていて、 大名家や名旗本などの武家屋敷はほとんどが拝領屋敷であり、 幕府の管理下にあった。 火消しも定火消し(武家屋敷)と町火消(町地)に分かれており、 町の警備も町家には木戸番屋、自身番がおかれ、武家屋敷街には辻番所が置かれていた。 木戸番は凡そ千か所を数え、辻番所も九百か所以上は置かれていた。 辻番所には、昼は5人、夜は二人か三人が詰めて警護に当たっていた。 徳川幕府が開かれた頃には、戦国の余習がさめやらぬ時期で人を斬りたいという 衝動を持つ武士もいたし血気盛んな侍も横行していた。 武士同士の対立、剣術道場での遺恨などで、辻斬りが横行していたのだった。 広大な大名屋敷や旗本屋敷のある武家地の道は延々と塀が続く寂しい通りで、 夜ともなれば全くの暗がりで、屋敷の辻で待ち伏せし、不意を衝いて、斬りかかる 事が多かった。試し斬りなどという不届きな事由もあったそうだ。 辻番所ができたころの目的は辻斬りを防ぐためであった。 それ故、辻番所の番人も剣の達人、武術家、槍使いなど、 強面の腕のたつ侍を揃えていて、その場所を通る町民は鬼番所と、 びくびくしていたものだった。 だが、天下泰平の徳川幕府が二百年も続くと、武家屋敷街にも 平和が訪れ、めったに事件らしきものが起こることもなかった。 辻番所もおためごかしになり、番所の形だけを取り繕った建物になっており、 辻番所の番役人も暇を持て余す年寄り侍や、隠居した武士が多くなり、 番所の役を担えば、侍のように腰に刀を差せるというので、近在の百姓が 番所に詰めることさえあったのだ。 陰山退助は そんな辻番所を見ていたので、これは楽して儲かる仕事だと 思い、にんまりしたのだった。 ~まあ、この平和な江戸で刀を抜くこともあるまい、 竹光で充分だ、~ と、軽んじた気持ちのまま、前借の月三両につられて薩摩藩邸の辻番になったのである。 だが、陰山退助が奉公する辻番所は三田にある薩摩藩の江戸藩邸であり、薩摩藩の中には、武力討幕論、討幕挙兵などを目論む者もいて、徳川幕府は特に警戒を強めていた藩であったのだ。 いざという時のため、辻番所には捕物三つ道具(刺又、袖絡、突棒)も壁に吊るされていて、辻行灯を五か所で灯して警戒に当たっていた。 危険な辻番所であるから、屈強な剣の腕のたつ番人を高俸禄で求めていたのだった。陰山退助もその一人で、前金で三両貰っていた。 今更身の危険を感じて身を引けば武士の沽券にかかわることである。 幕府からは、 ~盗賊その他、怪しき風体の者は見掛け次第、必ず召し捕り申すべし。賊が逆らいて、その手に余れば討ち果たすも苦しからず~ と厳重な取締りを命じられていた。 三田の辻番所には、恰幅の良い、強面揃いの侍が詰めていた。 これだけの面子が揃っていればまず安心であろうと陰山退助は思っていた。 だが、薩摩藩邸の辻番所に詰めて三日目の夜であった。 「討幕の疑いあり、番所を焼き払うぞ!」 と、黒覆面をした十数人の武士が刃を抜いてかかってきた。 さて、番所に詰めていた強面の五人の番人は、 鼻っから戦う意思などなかったのか、すたこらさっさと、番所を明け渡してしまったのだ。 竹光を腰に差した陰山退助も同然である。 薩摩藩邸の辻番所の番人は雲散霧消と消えてしまったのである。 つづく 朽木一空
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最終更新日
2024年03月16日 10時30分08秒
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