カテゴリ:統一教会
愛する者のために生きようとするとき、
その愛する者の願いを叶えたいと思うのは当然のこと。 けれど、その愛する者が、「自分だけを愛して欲しい」 「自分の家族だけのために生きて欲しい」ということを 願ったら・・。 それが愛のジレンマ。 愛すれば愛するほど利己的になる。 利他的な生き方をしようと思っても、一番身近な者からの 反対を受けることになる。 個人→家庭→氏族・周辺へと至るステップはそうそう甘くない。 「うち」と「よそ」を分けるのはこの社会では当然のことで、 よその子のために何でうちが犠牲にならなきゃいけないの? は普通の感覚なのだろう。 これが教会の教育の限界点でもある。 「天国に入りたい」というエゴを餌に信者を繋ぎとめてしまうから。 「うちだけでも」の感覚から逃れられない。 本来「普通の人」には統一教会は務まらないのだ。 何にも得することなどない道だから。 言葉巧みに誘ったところで良いことなどない。 統一教会の問題は信徒数ではない。 この地上に神の秩序を打ちたて 自由と平和と統一と幸福の世界を実現しようとする 父の理想に共感する人々が1000人も居たならば この世界は変わるだろう。 少なくとも、そのような人が12人でも 教会のトップに立っていたならば この教会も違った展開を見せていたかもしれない。 神の国より私の生活 のしかかる現実は決して甘くないのだ。 もし、違うというなら、気概をみせて欲しい。 にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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もうひとつ付け加えるなら
セクト意識だ。教会の中にもお役所と同じような縦割り行政があって、これが一つになれない。 どの部署もお父様からいただいた責任だ!という誇りと責任をもって頑張っているから厄介である。 自分一人なら行く道は簡単だが、配下のメンバーや家族のことを考えたとき、犠牲になろう!と言うのは難しい。 私が東京にいた頃は、予算の分捕り合戦、根回しが当たり前だった。 >「うちだけでも」の感覚から逃れられない。 これから解放されることが実は「救い」だと思う。 (2011.05.09 18:18:12)
>私が東京にいた頃は、予算の分捕り合戦、根回しが当たり前だった。
そうそう、本来の基本はまず万物復帰なんですよね。 自分たちの部署の費用は自分たちで賄う。「予算」が割り振られた時点で堕落するのは目に見えています。どんなに奇麗ごとを言っていても、お金がなければ回らないのですから。お金を握っている人間に逆らえなくなります。 私は献金についても今のような一括形式ではなく、部門、部署、プロジェクトごとに広報し、プレゼンをし広く寄付金を募れば良いと思っています。 それによってお金だけでなく人々の関心が集まり、人材が集まり、対社会的にも通用する運営ができるようになります。 結局のところ聖書の1タラントを預けられた僕の話ではないですが、それを「守る」ことが主の願いではなかったはずなのです。 (2011.05.09 21:10:10) |