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藤枝の空と緑と子どもたち

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エバーグリーン藤枝

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2007.09.29
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カテゴリ:教科書問題研究会
第1回 教育問題研究会  2007_0928    
7月の教科書問題研究会うちあげから久しぶりの集まり。飲み会の勢いでテーマは「戦後民主教育の検証」としたが、具体案はなし。とりあえず、話題提供の資料の検討から。
「戦後の教育改革で、文部省は、従来の中央集権的監督行政の色彩を一新して、指導助言官庁となった。学習指導要領も画一的教育のためではなく、教育現場での創意工夫を支援するための示唆の位置づけ。地域や生活に根ざした実際的な教育をすすめ、知識の押し付けではなく、子どもが知識を探求するという教育姿勢を示した。
 しかし、1952年頃から、基礎学力の低下をまねくおそれを理由とする新教育への批判が現れ始める。全国教研でも学問の系統性を重視すべきだという。数教協も水道方式を、矢川徳光も、這い回る経験論ではなく系統的な教育を提唱。やまびこ学校の無着成恭も路線転換。自然や社会の現象を法則としてとらえた知識が子どもたちにきちんと教えられなければならない、と。
 生活指導・学級指導においても集団主義的な指導が始まる。班、日直制度、規則と罰、民主的競争、話し合い、評価などをとりいれ、集団こそが主体だ、と。
 文部省も中央集権的に教科課程と学習指導要領を決定し、教科書検定などを実施。教育内容と教育方法の統制を始める。
皮肉にも、民主的教育を進める側が、画一的一斉授業、詰め込み授業を補強することになってしまった。」
「戦後新教育はアメリカ流のプラグマティズムを基礎とする実用主義・経験主義を取り入れた問題解決学習、生活単元学習を中心とした。それに対して、ソビエトの教育学を紹介する学者から、学問中心主義・系統学習の必要性が唱えられた。日常の経験から出発して、調べ学習や討論を大切にする授業から、学問の系統性を重視することへ転換したということだ。その両者の結合が必要だと思うが…。
しかし、権力側は、教育に対する管理統制を強め、勤評や学テを導入しようとする。指導要領にも強制性・拘束力をもたせていく。また、1960年代後半から学校の多様化が始まる。財界からの圧力が反映されて能力主義的な選別教育が強められる。さらに、1990年代になると、公教育の解体、教育の民営化論が出始める。」
「それに対して、民主教育を求める側も、教育条件整備、子どもの人権保障、父母との共同、格差の是正などを求めてきた。戦後教育問題の切り口はいろいろある。」
 この論文をどう考えるか。
「戦後教育は、専制君主の命令で国民に強制したことにまちがいがあったとして強制の排除、権威の否定を根本理念とし、生徒がそれぞれの自主性によって真理を探究することを重視した。しかし、それは現実性のない空論である。何の強制もなく、自由にのびのびさせれば、誰もがその善性を発揮して理想とする徳目を体得できるというのは夢物語でしかない。教師の権威を否定し、自主性尊重の美名の元に極端な放任主義に走ったり、共産主義革命を扇動する教師が現れたり、教壇を撤去し、教師をさん付けで呼ばせたり、学力テストに反対したり、運動会で順位付けをしないようにしたり…。この影響を受けた団塊世代は家庭でも親子の上下関係を否定し、モラルやしつけのおしつけをせず、自主性に任せて、甘え構造からなるぬるま湯的な家族を作った。マスコミも、左翼イデオロギーに傾倒し、学校を権力社会の縮図としてとらえ、教師は支配者で悪、生徒は民衆で善という二元論でとらえ、管理教育批判、細かすぎる校則批判に走った。しかし、自主性を尊重すれば自主性が育つというのは誤りである。
ふわふわとした自我しか形成できなかった子どもたちは、享楽主義や拝金主義に染まり、
教室に堂々と化粧ポーチを持ち込み、ミニスカで闊歩する女子高生が現れることになった。そもそも近代の学校は社会生活に必要な知識や技能を体得させるために設置されたのであり、生徒の意思にかかわらず、生徒を強制的に登校させ、時間的にも空間的にも拘束し、知識や技能を強制的に教えるところである。学校は学問や修養の場であり、華美な服装や持ち物は不要であるとする校則もストイシズムの強要として暗に了解されていたことである。
 多くの教育問題は自由や平等、人権といったきれいごとを敷衍しようとして起きている。どうすればよいか。社会が是とする共通の価値観やモラルを強制的に教え込み、自己をきびしく相対化させる中で、確固たる自我を形成させるべきである。さらに、勤勉や努力、忍耐といったかつての徳目を再認識させ、子どもたちを遊びには知らせる浅薄な消費文化ときびしく対峙させねばならない。いち早く戦後教育の呪縛から脱却することが肝心なのだ。」(1998年「諸君」掲載論文の要旨 筆者不明)
「この人は教育にそんなに力があると思っているのだろうか。教育によって、しめつければよくなる、と信じているのだとしたら、ずいぶんな楽観主義者だ。享楽主義・拝金主義は教育の問題ではない。消費文化をつくったのは教育ではなく、企業・財界がつくったものだ。それに対する批判も言及もなく教育のあり方だけを批判するやり方には別の意図を感じる。」
「戦後教育を性善説と批判するが、たたけば直るという意味で、人間の善性を信じている点では同じじゃないか。この文を書いているのは現場の教師らしいが、たしかに現場から見るとこのように見えるのかもしれない。しかし、社会を変えなくては…という点が抜けている。その意味では美しい国日本、と同じ発想だ。」
「ピアスもマニュキアも他の民族では伝統文化として子どものころからやっていること。アメリカなどでは、そんなことで大騒ぎしていたら教育が成り立たないと考えていたのに。」
「たしかに貧しい時代にはつつましさなどが徳目とされてきたが、社会が成熟し爛熟期になると文化は退廃することは歴史が証明している。情緒的には、この人の言うとおりと感じることもないわけではないが…。」
「日々の授業などの教育実践に希望や展望が見えない。社会科の授業にしても、主権者を育てるという意気込みを持てなくなっているのも確かだ。生徒も答えさえわかればいいと思っている様子。」
「フランス革命の授業で、自由と平等の相反性、そして調和する概念としての友愛を説明している。フリーダムとフレンドの類似性。自由とは欲望の奴隷になることではなく理性に従うこと。理性とはみんなの利益・幸福を求める。自治の理論武装につなげてほしいと思っているのだが、なかなかつながらない。校則改正など問題にならない。どちらかというと必要だという生徒が多くなる傾向。」
「制服をなくしたほうがよいと考える生徒がほとんど皆無になった。なくせばいいのに、と挑発しても、私服は面倒くさいと言って、ズボンを腰までずり下げる半パン・腰パン。私服だと着こなしが評価されてしまうことを恐れるのだろう。学校などの自分の周りの環境を変えようという意欲がなくなっているのではないか。」
「最近はどんな授業でも成立してしまう。自習にしても、生徒はちゃんとやっている。しかし、学んだことはちっとも身についていない。ノートはきれいにとるが、何も聞いていないわかっちゃいない。」
「先日、大学の先生の模擬授業があった。マーケティングの授業だが、生徒の反応が違う。おもしろい。こんな授業が毎時間できたらいいな、と思ったが、受験では使えないだろう。かといって、センター試験向けの授業をやってもむなしい。」
「高校の授業では、いったいどんな力をつけることを目標にしたらよいのだろう。大学の先生の模擬授業では、なぜおもしろくて、そこでどんな力がつくのだろう。」
「トイレ掃除での話し。まじめに言われたとおりには掃除をする。しかし、自分たちでどうしたらよいのか考えながらやってみろ、といわれてもどうやっていいのかわからない。溝に挟まったごみをとっておけ、と指図したが、どうしていいのかわからない。私が棒を持ち出してごみを取った。そしたら生徒がすごい!と驚いている。おれたちゆとり世代だからダメだよ、などという。生活科もあった、生きる力をつけているはずだったのに。」

「教えることと学びあうこと。受験学力と生きる力。おもしろい授業とわかる授業。教育への要求と希望、そして教育の目標。語り合うべきことはいくらでもありそうだ。」





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Last updated  2007.10.06 20:07:40
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