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実際に今、裁判になっていますが、例えば昔(といっても戦後です)、この国では身体障碍、知的障害のある人に対しての本人の同意のない、あるいは知的に理解できないことを利用して強制的な不妊治療が行われていました。理由は「先天的な障害を持つ子供が生まれる可能性が高いから」であり。これは国策として行政が行っていました。
で、これは明らかに優性思想であり、生命の尊厳を国家が管理する行為です。障碍を持って生まれるかもしれない、という可能性だけで人としての尊厳を奪う。ひどいことが本当にこの国では公然と「社会のため」として行われていたのです。 で、翻ると昨今のLGBTの人は生産性がない発言をした議員やその賛同者は、これと全く同じことを言っている自覚があるのか?ということ。彼らの言う「生産性」とは、つまるところ国家の役に立つことでしかない。そういう議員が私たち個人の幸福追求を「社会正義」の名のもとに平気で蹂躙する。 今は書かれていないそうですが、自分が小学生だった時の保健体育の教科書には「思春期になると男女は異性を意識し、好意を持つようになります。これは普通のことです」と。しかし、潜在的な同性愛者というのは5%の割合で存在するといわれています。そういう人は「普通ではない」という教育になっていた。しかし、5%とはクラスに一人はいるという高い確率であり、そういう子供を当時から「普通というこん棒」で傷つけていたのではないか? 杉田議員は「自分も女子高出身で当時から同性同士の疑似恋愛はあった。しかしそれは一時的なもので、みな普通にその後異性を好きになっていった」と書いていますが、そうじゃない人がいなかったと考えない、異性の代用としての同性愛ではない人も絶対にいる。そうじゃなければ毎年都内で行われているレインボーパレードにあれだけ多くの人が集まるわけがない。無知や想像力の欠落がこの人はひどすぎる。 国民があってこその国家であり、国家や体制を維持するために国民がいるのではない。そこを勘違いした議員が人の生き方を「生産性」などという工業生産のような価値観でこの人には税金をかけない、この人には税金で優遇する、などと決めている、恐ろしい話です。 今回の問題は自分が同性愛者じゃないから関係ない、という話ではありません。たまたまLGBTの人が取り上げられただけで、ここには障碍者も、高齢者も、病人も、独身者も、政治思想、宗教、人種、オタクも、その他なんでも都合よく入れられます。 それは自分も30年前。宮崎事件で社会的にオタクというものが徹底的に叩かれた時代を知っているからこそ恐れているのです。あの時もテレビで文化人とか評論家、学校の先生が言ってました。「漫画やアニメは子供時代に卒業するのが普通。それができないオタクは異常だ」と。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2018.07.28 12:43:53
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